新日本歌人

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あらたな飛躍のために ─創立七〇周年に思うこと─

碓田のぼる

はじめに

 中国の作家魯迅は、道というものはもともとあったのではなく、歩く人が多くなれば、それが道になるのだと、評論集『吶喊(とつ かん)』の中の「故郷」という作品の最後で言っています。これは含蓄の深い言葉です。今、自分の立っている場所をたしかめるには、これまで、どう歩いて来たかを知ることが大事で、これからどこへ向かうかは、また、その立ち位置をはっきりさせることで、見定めることが出来るのだ、ということを含意しているように思います。
この魯迅の言葉になぞらえて言えば、新日本歌人協会の創立・機関誌「人民短歌」(一九四九年十二月号より「新日本歌人」と改題)の創刊七〇周年に思うことは、私たちの協会が、どのような伝統を背負って出発し、いま、どんな地点に立っているか、をあらためて明らかにすることによって、どんなことがあらたな課題として求められてくるだろうか、ということです。
それは、端的に言えば、私たちの新日本歌人協会の自己認識であり、歴史認識とも言えるものです。歴史の修正主義者らが、ナショナリズムをあおりたてながら、戦後の歴史を逆行させようとしている時、このことは、きわめて重要なことであると思います。

(一)

久々に会ひしこの友も
痩せてをり、
吾ら忍苦の日の長かりし。

新らしき日を迎えたる喜びを
この友はいふ、
瞳(め)をうるませて。

渡辺順三の戦後最初の歌集『新らしき日』(一九四六年一月十日、新興出版社刊)所収の歌です。一九二〇年代後半から、一九三〇年にかけて、火を噴くように展開された、プロレタリア文化運動の一翼としてのプロレタリア短歌運動の中心的組織は、弾圧によって潰滅させられた後も、十五年戦争に抗しつつ「短歌評論」を中心に、生活と短歌を結合し、戦争に反対し、平和を守る歌声をあげ続けました。それは、狂暴化する治安維持法体制下の、ギリギリの抵抗でした。「短歌評論」は、年刊合同歌集として第一集『世紀の旗』(一九三五年五月)、第二集『集団行進』(三六年五月)、第三集『生活の旗』(三七年六月)、第四集『冬空』(三八年七月)と出し続けましたが、この表題だけでも、時代の動きを感じとることが出来ます。「短歌評論」は一九三八年一月で終刊となりました。渡辺順三は四回の逮捕、投獄とたたかいながら、一九四〇年には遂に筆を折り、敗戦を迎えたのでした。
前掲二首の正確な作歌日時はわかりませんが、おそらく敗戦直後から「短歌評論」時代の仲間と連絡をとり合いながら、新日本歌人協会の結成を準備していた頃のものと思われます。敗戦の日の感動を、このような内容で表現した歌壇の歌人はほとんど居ませんでした。十五年戦争に、歌壇諸雑誌はあげて戦争讃歌を歌い続け、近代短歌史に汚辱の頁を塗り重ねていたからです。

新日本歌人協会成立し夕冷え暗く講堂を出づ

これは、七〇年前の一九四六年二月一日、新日本歌人協会が結成された時、窪田空穂、矢代東村と共に賛助会員となった、石川啄木の若き日の盟友土岐善麿の歌です。同時に創刊された「人民短歌」に、渡辺順三は「創刊の辞」を掲げました。それは、次の一文から書き起こされています。

「満州事変以来の侵略戦争の遂行によって、わが国の軍国主義者とその協力者たちは、吾々大多数の人民を暴力をもって抑圧し、あらゆる自由と権利を剥奪して来た」。

こう書き出した「創刊の辞」は、十五年戦争下の「日本文化の暗黒時代」を想起するとともに、軍国主義的な作品があらゆる歌壇雑誌をおおって来たことを厳しく指摘しながら、「人民短歌」の使命について、次のように述べて「創刊の辞」をしめくくったのでした。

「我々は万葉集の伝統を今日に生かし、歌壇に於ける誤れる伝統主義、封建主義と闘ひ、短歌の高く正しい発展のために、その庶民性、民主性を取り戻さなくてはならぬ。そして人民大衆の生活的実感を根底とした、芸術的に秀れた短歌を創造せねばならぬ。わが『人民短歌』の使命はこゝにある。吾々は広く進歩的な歌人諸氏と提携し、協力してこの偉大な使命の達成に全力を尽したいと考へる。」

「人民短歌」「創刊の辞」の中心的な思想は、新日本歌人協会の規約の中にも明文化されています。そのもっとも原則的で重要なことは、新日本歌人協会は、結社や同人誌ではなく、短歌の民主的創造と発展を目ざす、運動団体であり、同時に民主的、革新的な短歌の創造団体であるということです。

(二)

新日本歌人協会が創立されて七〇年、それは日本の戦後史と全く重なったものです。それゆえに、平坦な道などではなかったことは当然のことです。渡辺順三は「創刊十周年記念号」(「新日本歌人」一九五六年二月号)に掲載した評論「『新日本歌人』十年の歩み」の中で、敗戦によって、日本の民主革命が急速に進展してゆくように思えた潮流の中で、「われわれの短歌運動も急速に拡大するものと安易に考えていた」ことを振り返り、次のような痛切な反省を書きとめています。

「占領軍を解放軍と錯覚し、平和革命の可能性を信じ、人民政府の樹立もそう遠くないとの幻想がわれわれを浮き浮きさせ、思い上らせた」。

日本を、アジアにおける反共の防波堤としようとした占領政策の転換は、言論・思想・結社の自由などの基本的人権への抑圧を伴ったものでした。新日本歌人協会を襲った、戦後第一の危機は、まさに占領政策と関連したものでした。アメリカ占領軍は、日本の出版・流通機構の再編成を強行したため、協会が、機関誌「人民短歌」の編集だけを担当し、出版・販売は新興出版社が行なう仕組みが廃止され、協会は自前で、編集、印刷、販売をしなければならず、財政問題、協会組織が一挙に深刻な状況におとし込まれました。この時以来、雑誌は一般書店の店頭から姿を消したのでした。会員への直接発送の形となったのはこの時からです。
この第一の危機は特別として、その後にぶつかった第二、第三の危機は、協会内部の矛盾に起因したものでした。

ともし火を消すことはできぬ、と
順三が言いきるときに
なみだ湧きくる。(一九五四年)

歌よ、働く仲間のこころよ、
いっぱいあふれる
二十四ページの小さき紙面(一九六二年)

二首とも、機関誌「新日本歌人」発行の危機の中での赤木健介の歌です。危機の一つ一つについてくわしく述べる余白はありません。『新日本歌人協会六十年史』をこの機会に読んでいただければ、先人たちの、わずか二十四頁の雑誌を守ろうとした、高い志は理解されると思います。

(三)

私は本誌二月号で「情況に真向う歌──強く、深く、痛切に──」を書きました。これはきわめて舌たらずのものでした。私がここで言いたかったことは、戦後七〇年の、あたらしい画期的な歴史状況の中で、私たちの歌は、これでいいのかということでした。
状況のリアリズムに対して、私たちの主体のリアリズムが立ちおくれてはいないか、と言いたかったのです。
啄木は一九一〇年(明治四三年)の歴史状況を「時代閉塞の現状」によって、鋭くつかみました。啄木はその作家主体を、歴史の進む方向に大きく前進させました。明治の天皇制絶対主義という強権の姿に立ち向かうために、それが格別に強力な存在としてあるがゆえに、時代を歌う言葉はそれに対応した強さをもち、深く、痛切でなければ、広汎な人びとと連帯できない、と主張したのでした。それは、表現者としての主体と言葉の問題を、鋭く意識したものでした。それゆえに、『悲しき玩具』の表記は、『一握の砂』をはるかにこえたものになったのだと思います。表現としての言葉の一角である行がえの手法も、句読点の工夫も、広汎な読者と手を結ぶための、作者の側からの、積極的で創造的な試みでした。

土屋文明がかつて、

お稽古事独習全書ここにあり短歌俳句もその中にある

と自嘲的に歌ったことがあります。しかし文明の本心は、歌の低さを嘲(あざけ)ったのではなく、短歌作者の度しがたい文学としての主体性の欠除を、自戒をこめてこのように歌ったのだと思います。
昨年来、日本の社会に激震をあたえて来た、生活の土台から、噴き出して来た民主主義の力は、まぎれもなく、一人ひとりの主体性が連帯しながら切りひらいて来たものでした。市民革命と言われるゆえんです。
七〇年前、渡辺順三が「人民短歌」の「創刊の辞」に書いた「短歌の高く正しい発展」ということも、新日本歌人協会の規約が掲げる「新しい短歌の創造、普及することをめざし」「それを将来に発展させる」という課題も、私たちの主体が、この状況のリアリズムとともに変革され、発展することが必要不可欠だと思います。そうでなければ、表現者として、もっとも重要な、時代にひびき合う言葉を発展させることなどは思いもよらないでしょう。小手先だけの言葉のあやつりや、条件反射めいた、ことがらへの追随傾向、使い古され、手垢にまみれた言葉などなどをのりこえなければ、連帯し、共同し、言葉を力に、短歌の革新なぞは出来ないし、まして戦争に反対し平和を守り、生活や暮らしを守ることは出来ないでしょう。
卒直に言って、昨年来の私たちの作品は、「政治詠」「社会詠」として、時どきの事がらを詠み込んだ作品が目立ちましたが、それだけで、短歌が革新されているなどと言えないことは明らかです。私たちのめざすものは、「短歌の革新」です。たちおくれた主体のリアリズムを鍛え、発展させつつ、状況のリアリズムに立ち向かい、自らの言葉、抒情が社会性を獲得し、広い共同と連帯を生み出す方向へ進み出ることが、きわめて重要となっています。
渡辺順三が、六〇年安保闘争の中で、「いわゆる『社会性』と主体性の問題」(「短歌」一九六〇年九月号)という評論を書いていますが、それは状況のリアリズムに立ちおくれている歌人主体のリアリズムをどうするのか、という問題意識だったように思います。

加藤周一の著書に『言葉と戦車』(ちくま文芸文庫)があります。一九六八年の「プラハの春」についての、実況放送のような、生なましい報告です。ソ連を中心としたワルシャワ条約機構が、チェコスロバキアの民主化運動を弾圧したのでした。チェコの民衆は無抵抗で、言葉で、戦車とたたかったことを、感動深く書いております。
「イヴァンよ、おまえにやる花はない」
これはチェコの花屋の広告だったと著者は言います。また、「レーニンよ、墓から起ちあがれ、ブレジネフの頭がおかしくなった」とも。そして、「一九六八年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。」と感動的な言葉を、加藤周一は書き残しています。
これは、私たちが目標とし、創造しなければならない、まさに言葉の力とは何か、を示していると思います。
渡辺順三が「創刊の辞」を書いた時とほとんど同じ時、宮本百合子は「歌声よおこれ」という評論を書いています。その中の一節を次に引いて、本稿の終わりとします。

「民主なる文学ということは、私たち一人一人が、社会と自分との歴史のより事理にかなった発展のために献身し、世界歴史の必然な働きをごまかすことなく映しかえして生きてゆくその歌声という以外の意味ではない。」 (二〇一六・六・二一)



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