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■順三忌記念小論■  渡辺順三の短歌再読

菊池東太郎

一、渡辺順三短歌批評への新しいアプローチ

渡辺順三の第二歌集『生活を歌ふ』(昭2)の序で詩人の福田正夫は順三の歌を評して「人間即芸術」といっている。これは順三短歌を批評する在り方の一つを示唆している。
福田がここでいおうとしているのは、順三の作品の鑑賞・批評は、順三の生き方と切りはなせないということだろう。もっとも生き方と作品のこの関係は、一般的にはどんな作者にもいえることではある。しかし順三の場合は、とりわけその関係は強いと私は思う。順三は他の歌人のように、己を歌人として特別視し、専門歌人視することをしない歌人であるからである。順三は、第六歌集『波動』「あとがき」で「私は専門歌人などといわれる柄ではなく、単なる短歌愛好の民衆の一人なのである。そう思ってとにかく五十年間歌に親しんできたのである」(p390)。と書いている。順三はいわば自覚的な民衆歌人なのである。その作品は「民衆短歌」と呼ばれるに相応(ふさわ)しい。批評は、それに見合った新しいアプローチが求められるだろう。
一般的に短歌批評においては、傾向として一首から表現のみを切り離して、芸術としての完成度を論ずる趣がある。これは当然のことである。短い抒情詩である短歌が他の文芸と区別される本質的な点が、作者の主観が感性で捉えた歌材を僅か五七五七七・三十一文字形式で表わし、その芸術的成否が歌の上下を決めるといわれるからである。しかし「民衆短歌」への説得性のある批評のために、この方法で十分なのかが問題なのである。
「民衆短歌」の鑑賞・批評においては、時代との関わり、その時代と短歌にむかう作者の態度、芸術を左右する文学観、作者の生き方などを顧慮しなければならないだろう。
順三は「民衆短歌」について次のように述べている。「民衆短歌の特徴は、今日の社会のなかで、さまざまの不合理や矛盾とたたかいながら、いかに生きてゆくべきかという切実な要求と願望が作歌の基盤となっており、あくまで現実生活に密着した抒情が、迫力と緊張をともなっているところにある。このような現実感と真実性にあふれた民衆の作品にたいして、一部歌壇的専門歌人の作品は、既成概念から解放されない古めかしい短歌的詠嘆であり、またいわゆる近代主義的な、演技過剰ともいうべき技巧偏重の作品が多い。これらの作品は、あくまで生活実感にうらづけられた、真実味のあふれた民衆の作品の前には、いかにも色あせて見える」(『民衆秀歌』春秋社昭33p230)。順三が生涯師として仰いだ窪田空穂は、結社誌「まひる野」創刊号への巻頭言で、「われわれの短歌は、われわれが民衆であると同じく民衆的のもので、それ以外の物ではないのである」(『窪田空穂全集』第八巻p366)と述べている。順三はこの見地を土台に置いて民衆の短歌を論じているのである。
順三の作歌への「態度」は、近代短歌の究極であるとされた、個人の自我の解放、「自我の詩」の追求にむかうのではなく、人間の全的解放が、社会変革と切りはなせないという点にむかう。それは自然、人生を傍観的に観賞するのではなく、自らその社会変革の主体(主人公)として、あるいはその立場にたって歌うことであった。ここにこそ社会の不合理・矛盾によって虐げられた貧しい大衆の短歌が創造されるという自覚に立つものである。それは、七十八年の生涯、渡辺順三が推し進めて来た短歌革新の中心思想であった。

 

二、感傷と現実性

順三の処女歌集『貧乏の歌』(大正13)に次の歌がある。
夜業終えて、/真黒になりし手を見つつ/ふとしも涙ながれてやまず
この歌集は渡辺順三の十六年間の家具徒弟生活の中から生まれたものであることはよく知られている。順三は大正二年十九歳のころ、窪田空穂に師事、翌年空穂の手で創刊された『国民文学』の同人に加わっている。(大正3順三 二十歳)。そしてこの歌集の歌は主としてこの『国民文学』に発表されたものである。
順三が富山から出て来て家具職人になったのは、僅か十三歳で、碓田のぼる氏の『渡辺順三 執筆年譜総集』([増補決定版]p11)によれば、歌を作り始めたのは十五、六歳のころで、流行性脳脊髄膜炎の療養のため帰省し、そこで従兄弟(い と こ)の近江融、顕の影響で作歌をはじめたのである。この年端もゆかない順三が、やがてその青年期にかけて作歌してゆくのであるが、その作歌環境は厳しく険しかった。家具職人丁稚という苛酷な労働と生活環境が、柔らかい順三の心に深い傷を残したことは想像に余りある。
この歌集『貧乏の歌』に見られる、労働の疎外と歓び、向学心、思想形成の過程で生まれる凡俗に対する気負い、人間性回復への希求、激動する時代への危機感をともなう憧憬などが、順三の情緒となり、この歌の「ふとしも涙流れてやまず」という自然な感傷を生み出すことになったといえよう。
食券を/テーブルの上になげ出せば/カチンとなった、淋しきその音(同)
評者は順三の歌に啄木・哀果の影響を指摘する。啄木模倣の順三短歌といえど、啄木・哀果のような観念的発想はないという評が大方である。それはこの引用歌からも読みとれる。
疎外からの回復を見据えて、順三の抒情が物に託して歌われている。「カチン」となる「食券」は形象化された大衆の貧困である。「淋しき」は感傷的といえばかなり感傷的であるが、強固な現実性に支えられている。この強固な現実性と感傷の結合が順三短歌の抒情表現の特徴といってもよいだろう。

 

三、『生活を歌ふ』の批評の在り方

第二歌集『生活を歌ふ』(昭5)の歌をどう批評するか。
どうにでもなるようになれと/すてばちな、/きもちで今夜もふとんをかぶる。
これでいいのか、これでいいのかと/目にみえぬ、/力が俺をゆすぶるようだ。
この二首を行き交う主観の動揺。
借金のいいわけを妻に押し付けて、/のがれるように/家をでる、今日も。
氷買う金にもいまは乏しくて、/妻は隣りヘ/金借りにゆく。
痛切な貧困の現実と己の内面に注がれるリアリズムの目。
これらの歌の土台をなしたのは、家具屋を辞して印刷屋を開業(大正12)して後のことで、関東大震災後の経営困難、経済不況の中での窮乏のどん底の毎日の生活であった。世界大戦後の不況時代の社会的動揺と順三自身の主観の動揺である。一般的に動揺は作歌の大切なモメントではあるが─。
この時期順三は作歌から遠ざかり、表現活動は評論に注がれている。大正12年になってその惨憺たる生活の中で処女歌集『貧乏の歌』を自力で出版し、これを期に短歌へ回帰している。碓田のぼる氏によるとそのわけは、順三が「新しい短歌革新の胎動を感じとったことによる」。(『渡辺順三研究』p37)としている。
その僅か二年後にしてこの第二歌集『生活を歌ふ』(昭和2)を纏め、発行している。そこに何があったのか。
この歌集について、順三自身第六歌集『波動』「あとがき」(p386)において、「そういう暗い生活のなかでの『生活を歌ふ』の作品は、当然消極的な諦めと愚痴の歌である。しかし一方で私は、幼少年時代からいやというほど味わされてきた貧乏というものの根元を、現代社会の矛盾として理解するようになっていた」と書いている。
順三研究者たちの間で順三のこの評言は追認されている。碓田のぼる氏はこの歌集の出版について「一九二七年の時点で、(中略)大塚金之助の「無産者短歌」が登場し、(中略)時代の思想は明確な分岐を示して来ていた。順三のめざす短歌の行方やその思想について『芸術と自由』との間には、明らかな乖離(かい り)が生まれていた。順三は、小市民的な『芸術と自由』の時代を清算する意図をもって、あえて未成熟な歌集『生活を歌ふ』を出すことに踏みきったのではないか─というのが、現在私の持っている仮説である」と述べている。(『渡辺順三研究』p60)。
この仮説が十年ほど前に碓田氏によって書かれてから、私は独りこれを'清算説'と呼んで自分を納得させて来た。昨年(二〇一六年)同氏は、上梓した『渡辺順三の評論活動その一考察』で、『階級戦の片すみ』に収載された順三の17個の論文の夫々(それ ぞれ)の内容と時代との関わり、その理論活動の変遷を整理された。そこで第二歌集『生活を歌ふ』の発行が、論文では、人生論的なものから短歌論、短歌運動論へ移行した時期に当たることを指摘している。(該当する論文とは『二三の問題』、『僕の立場から』で、いずれも一九二八年昭和三年九、十月に発表されたもの。『生活を歌ふ』は昭和二年七月二十日)。
この論文『僕の立場から』で順三は小市民的に陥っている西村陽吉を批判し、順三自身本誌(『芸術と自由』)の「編集者として甚だ不適任な立場に立つに至った(中略)僕自身にハッキリした色彩が生じて来たことだ」(渡辺順三『階級戦の一隅から』紅玉堂昭和4年 p124~125)とその辞任の理由をのべている。ここで注目するのは、「ハッキリした色彩が生じた」順三の自覚の進展である。これがそもそも順三が清算をいい出した出発点である。碓田氏は『渡辺順三研究』では「順三は、小市民的な『芸術と自由』の時代を清算」と書き、『渡辺順三の評論活動』では「順三は小市民的な『芸術と自由』との関係を(中略)清算しようとした」(p45筆者傍点)と書いている。この二文のコンテキストは同一でいずれも「清算」(決別)は順三の思相の進展によって起ったと読める。碓田氏は『生活を歌ふ』の性急な発行動機をこの「清算」と「時代の思想の分岐点」(同p60)に帰しているのである。そして「『生活を歌ふ』は『貧乏の歌』から見れば、その思想において後退しており、作品内容は貧しさと病いとに、(中略)打ち負かされている」(同p60)歌集であると評している。問題は「清算」の基因である思想問題を文字問題にそのまま平行移動して、「未成熟な歌集」(同p60)の出版動機とするというこの飛躍した論理である。理解しずらいことだ。
そこで先に牽いた『生活を歌ふ』についての渡辺順三自身の一文(『波動』の「あとがき」)のうち、後半部分を読み直してみることにする。「一方で私は、幼少年時代からいやというほど味わされてきた貧乏というものの根元を、現代社会の矛盾として理解するようになっていた」。とある。私には、この一節は、第二歌集『生活を歌ふ』の発行理由を記したものではないが、この歌集の歌歌が日の目を見なくなるのが忍びないから、発行することにするのだという順三の思いを懐蔵しているようにとれる。私にはこの文中の「理解」は、〝理解して歌って来たのだ〟と読みとれる。順三はこの歌集の歌を愛しむように選んだに違いない。順三がその自伝『烈風の中を』(東邦出版社p34)で「それ(注 社会主義的理論)はからだでじかにわかった」と述べているが、これは短歌でも言えることなのだろう。この歌集はそのことを思わせる。この『生活を歌ふ』には引用した歌のように厳しい現実をごまかさず、在るがままの自分を見据える態度、また短歌の究極は己の中の人間を歌うことだという態度が窺えるのである。
歌は享受者に作者の思想を叙述して供するものでなく、作者の情緒への共感によって、享受者に人間回復への覚醒を促すものである。それは偽の抒情を峻拒する歌風、事実に基づき誠実に歌う歌風によって可能なものである。

 

四、短歌革新運動の開始と発展

昭和三年短歌革新運動の昂揚は、新興歌人連盟の結成と解散を経て無産者歌人同盟結成、その機関誌『短歌戦線』の創刊となる。そして翌昭和四年七月にプロレタリア歌人同盟を結成する。それが解散する昭和七年までのほぼ三年がプロレタリア短歌運動の時代をなし、その大衆的エネルギーは『プロレタリア短歌集』などに結実してくる。順三は、自伝『烈風の中を』(p115)に、「同盟」は「規律に対して謙虚であり、忠実であった。この同盟生活のなかで、みるみる私はつくりかえられていった」(傍点筆者)と記している。
短歌革新運動は、プロレタリア短歌運動時代を突き進む。
渡辺順三はその運動で指導的役割を担う。社会情勢の激動、労働者の闘いの激化を受けて、プロレタリア同盟の歌人達の短歌作品は、著しい政治主義的偏向を生み出した。また「短歌の詩への解消」問題が発生、終にこの運動はその幕を閉じたのであった。
この反省に立って『短歌評論』は準備されたのである。その理論的指導は渡辺順三に課せられた。上述の誤った政治的偏向からいち早く抜け出し短歌本来の創造へ導くことができたのは、『貧乏の歌』『生活を歌ふ』で生活のどん底から歌っていた渡辺順三であったことは意味深い。
ポケットのなかで/握りしめてゐる手が汗ばんでゐる。/烈風をつきぬけ/つきぬけ/僕は歩いてゐる。
(第三歌集『烈風の街』昭14)
厳しい時代にたたかい、生き抜く意志が初句、二句に形象化されている。リアルであるとともに、主観がにじんでいる。

 

五、ファシズム吹きすさぶなかで

太平洋戦争勃発(昭16)の翌朝、渡辺順三は治安維持法容疑で検挙された。翼賛歌を歌わない渡辺順三などへの弾圧であった。それは支配者による厳しい妨害と弾圧のもとで発展して来た短歌革新運動への最後の攻撃を意味する。
ひとときを心呆けていしわれか手を動かせば手に手錠あり (第四歌集『新しき日』昭22)
下句の現実性に支えられて「心呆けていし」の偽りなき抒情の自己陶酔性が読み手を強く引き付ける。順三の代表的な歌。

 

六、敗戦と民主主義的短歌運動

久々に会ひしこの友も/痩せており、/吾ら忍苦の日の長がかりし。 (『 同 』)
敗戦の翌年、昭和二十一年二月二日、新日本歌人協会が設立され、渡辺順三はその最初の代表に選出された。この一首からは、短歌革新運動を進めてきた歌人たちの忍苦が誇張なく歌われている。真理はいつも具体的なものであるから、批評の真偽もまた時代と関わる。結句の抒情は古めかしいが、時代情況の下での真実の声調なのである。
戦後の所詮(いわ ゆる)「民主革命」は占領軍・アメリカの反共政策によって挫折した。民主憲法は形式的に勝ち得たものの、いま戦前復帰コースを企むものと、憲法九条を護ろうとする平和・民主勢力との間で綱引き状態である。日本は深くアメリカへの従属のもとにおかれている。以下、時代背景は省く。

 

七、態度のリアリズム

順三の六つの歌集全体に見られる創作特徴は、先ず対象をあるがままに写す方法に立っているが、そこに留まらず対象に対する「態度」によって現実を深く捉える方法を見せる。
歌集『日本の地図』(昭和29)の「アカシヤと砂丘」(八月三日、内灘)と題する内灘基地反対闘争の歌では、米軍基地、闘争の参加者、植物・景色などが歌われている。
①この小屋の日の丸の旗/星条旗と相対して、/日本民族の声。
②ねむの花、/うすくれないのやさしさを、/手にとるときも砲はとどろく。
③献身の美しさ見よ、/内灘にたたかう学徒らの/澄みてあかるき瞳。
④「ご苦労さん」と/声かけて近よる僕らにも/顔をそむけし幾人かあり。
先ず①は単なる事柄のようで、そうではない。説明を消去して「声」で暗示させている。②は事実を越えて象徴の域に達する。③と④はともに事実を歌っているが、④は対象を深くとらえる態度のリアリズムから生まれるものだ。
第六歌集『波動』(昭41)の「乱雑な選挙事務所の片隅にしばしまどろむ一時間ほど」の歌も同様なことがいえる。

八、短歌のことばについて

見解の相違とは裁判長何を言う。/見解の相違で/死刑にされてたまるか。
松川不当判決の歌。知られた歌であるが、いまも評価の分かれる歌である。この歌の一行目の「見解の相違」なる言葉は普段日常会話などで使われている「言葉」に過ぎないが、次行句の「裁判長」に結びつくと、この「見解の相違」なる「言葉」は意味を持つ。この「言葉」は文学表現を獲得する。即ちこの「言葉」が裁判長によって発言されたと読み手が受けとった瞬間、死せる「言葉」は生きて呼吸を始め、この裁判の不条理を暗示させる。二度目の「見解の相違」も終りの結句の言葉「死刑」によっていよいよ反人民的な裁判の非情を暴く。死せる「言葉」は傍聴席で一気に立ちあがる民衆の叫びとなる。即ち文学の「ことば」となるのである。その力により国家の本質を剔出(てき しゅつ)する。ここで取り上げた「ことば」の問題は私たちが作歌するとき、多くの示唆を与える。
渡辺順三は『合同歌集生活を歌う』の「巻末記」(『渡辺順三全歌集』p125)に、現実のかくある生活を歌うことと同時にかくあるべき生活を歌うという態度に立つべきだということを述べている。この「松川」の歌は一行句目で現実を歌い、結句でかくあるべき姿へ向かって転化している。ここにも順三の態度のリアリズムが見えるのである。
民主主義的短歌運動が人々の思想感情を掬いとって、平和と民主主義の明るい社会を展望して歌うものだという主張を、私をふくめてよく言ってきた。これは誤謬である。そもそも、平和・民主主義の作歌の型紙を下敷きにして布を裁つような、非文学的創作態度は創作のみならず、批評の実際にもあり、克服しなければならないだろう。平和・民主的を展望できるかどうかは享受者がきめることなのである。そのためにリアリズムの創作方法があるのである。
渡辺順三は昭和四七年二月二十六日に逝去した。新日本歌人協会はこの二月二十一日に「順三・妙二忌」を持つ。いま「協会」設立、『人民短歌』創刊七十年の年の歳晩である。順三の短歌と短歌観、短歌に対う態度を回顧し、さらなる発展の思いを抱き、この拙稿を終る。

順三・妙二忌のつどいはこちら



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