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■順三の思い出■ うまい米を食べに来い

清水鉄次郎

 恩師にして大先輩の渡辺順三(敬称略)の思い出をとのことなので、かなり忘れてしまっているが記します。
一九四七年秋頃か、鶴見の豊岡会館で短歌教室があるので行こうと友人に誘われ、参加したときに初めてお顔を拝見した。実のところ私は「唯物弁證法読本」(徳長直氏と共著)を読んでいたので、哲学者と思っていた。びっくりした。
一九五〇年頃、私は新日本歌人協会に入会。その頃に豊岡会館などで何回か、歌会が開かれ私も参加した。
渡辺順三、司代隆三、信夫澄子など先輩たちの助言、指導を受けた。
一九五一年に、信夫澄子を中心とする詩歌サークル誌として「風祭」が発刊された。辻堂の信夫宅でほぼ毎月、歌会が開かれて若い男女が、まさに心うきうきと学びあった。
一九五三年八月、新日本歌人協会、東海短歌会、風祭の三者による合同歌会が、沼津の牛臥海岸に在る大山巌(日露戦争時の陸軍大将)別邸で催された。積惟勝(主宰)さんの尽力による。
渡辺順三、赤木健介、信夫澄子ら四〇名が参加。このとき帰りの列車で私と順三は隣り合せに座っていた。いろいろ雑談が弾んでいたが、私は横浜の近代短歌史の流れのなかで幕末から明治にかけての文明開化期に、どのような歌人が居たか質問した。微笑みながらの即答は「大熊弁玉」と教えてくれた。また窪川鶴次郎「昭和短歌史」序説で「由良牟呂集」の長歌「人力車夫」など紹介していると教えてくれた。私なりに資料を探し勉強した。一九八三年一〇月発行の横浜市教育委員会「横浜の文化・№11」「大熊弁玉」に短い感想文を書かせていただいた。あの時の教えを忘れない。
一九五五年頃だろうか、判然としないが、秋の頃に葉書が来た。順三からであった。内容は「うまい米が入ったから食べに来い」という。びっくりしたが指定の日時に下北沢のお宅に行くと、御夫婦で歓迎された。その頃の私はニコヨン・全日自労の労働運動から、生活のこともありマシンツール(工作機械組立仕上)の仕事で百分の一粍、千分の一粍の精度(時には一万分の一粍)の世界を追求していた。重労働であった。美味い食事をいただきながら話しあった。
順三は家具屋の小僧時代のことなど、窪田空穂に師事、のち口語自由律に移ったこと、無産者歌人連盟、プロレタリア歌人同盟、「短歌評論」「短歌時代」の創刊のことなど回想として、ゆっくり語ってくれた。また昭和十六年十二月九日未明の検挙のことなども。私は父の反戦・平和の行動でのガサ、検挙のことを話した。友人で歌人でもあった公塚政次、山埜草平のことも話した。順三は私の手を握り「頑張れよ」と微笑んだ。しかし、このとき私は「渡辺先生」と始めに呼んだのだが、順三は「先生は止めてくれ、渡辺さん」で良いのだと。いま憶えば赤木健介、佐々木妙二の両先輩にも同じことを言われていた。民主主義短歌運動・短歌革新の君は若い同志だよと、ウイスキーをおごってくれた。
行分け短歌と言わず、口語自由律または自由律短歌と言っていたことを思い出す。

順三・妙二忌のつどいはこちら



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