新日本歌人

新日本歌人 入会のご案内

二〇一六年啄木祭講演抄録

生誕一三〇年 啄木の魅力を語る

(二〇一六年五月一五日)

山下多恵子

 演題にある「啄木の魅力」という言葉には、当然のことながら「啄木は魅力的な人物であった」という意味合いを込めたつもりです。作品はいいけれども人間としては駄目な奴だった、という旧来の啄木伝説を、鵜呑みにする人はさすがに少なくなってきたようです。しかし著名な方の中にも、誤解にまみれた啄木像をまことしやかに語り続ける人が、いまだにいることを思えば、私の拙いお話も、無駄ではなかったのかと、ほんの少し自画自賛しています。
わずか二六年の歳月をひた走り、力尽きた石川啄木。その人生と文学の魅力を、あれもこれもと欲張って、たくさんお話しした中から、特にお伝えしたかったことを、以下に記します。

●成長し続ける啄木

啄木の魅力の一は、昨日の自分を、今日は乗り越えようとしていたことです。啄木が欠陥の多い人間であったことは確かです。天才主義にかぶれて、鼻持ちならない態度を取り、顰蹙を買っていた日々もありました。しかしそんな自分の鼻をへし折ったのは、彼自身です。
父が住職を罷免され、家族の生活のすべてが自分にのしかかってきたとき、彼はそれを受け入れがたく思い、けれども生涯そこから逃げませんでした。時に自暴自棄になりながらも、家族も生かし自分も生かす道を模索します。文学か生活か、というのが最大の課題であり、そこを突き詰めたところに、『一握の砂』の歌人であり「時代閉塞の現状」の思想家啄木は誕生したのです。
度々の挫折をものともせずに、さらに前に向かっていこうとする、啄木の打たれ強さは、親に十分愛されているという実感が自身への信頼となり、生きる力となった、と言えるのではないか、ということもお話しいたしました。

●豊かに人と交わった啄木

彼は短い人生の中で、様々な人と──家族とも友人とも女性たちとも──実に豊かな人間関係を築きました。人を愛することのできた人、であったと思います。
啄木と関わりのあった人たちの中で、特に妻節子と友人宮崎郁雨については強調してお話しました。啄木の人生のみならず文学にも、大きな影響を与えたふたりと思うからです。
啄木は節子を「我ならぬ我」と言っています。啄木の中で節子は、私そのものとは言わぬまでも、私とほとんど重なるほどの存在、もう一人の私、といってもいいような存在と捉えられていたのです。
啄木が自らを天才と信じていたように、節子もまた、啄木が天才であると信じていました。どんなときも、たとえ結婚式をすっぽかされても、啄木についていった、その思いの原動力は、そこだったと思います。彼は天才なのだ。私は天才の妻なのだ、と。啄木が恋人として、また妻として節子を選んだ理由も、彼女が自分を天才と思ってくれているという、その部分が大きかったのではないかと思われます。
北海道漂泊を経て上京後、貧しくみじめな生活の中で、次第にふたりの関係は変質していきます。けれども節子の家出に、異様ともいえるほど動揺する啄木を見ますと、やはり彼女こそ啄木のただひとりの「我ならぬ我」であったのだなと思います。
金田一京助とともに『一握の砂』をデジケート(献呈)された宮崎郁雨は、啄木が北海道に渡ったときから、函館に家族を残して上京後も、ずっと一家を物心両面で支えた人物です。
上京して「自分の文学的運命」を試したい、という啄木の願いを、郁雨が受け入れ、上京の費用を出し、家族の生活を引き受けたからこそ、啄木はひとりの時間を持つことができ、凄絶な「ローマ字日記」の世界も体験することができたのです。辛く苦しい時間だったでしょうが、文学者啄木には必要な時間でした。
しかし後年、恩人とも言えるこの人物と、啄木は絶交します。郁雨から妻節子宛に届いた一通の手紙が原因でした。この絶交によって、長年郁雨から受けていた経済的な援助も途絶えてしまいます。そのことが一家をいよいよ追い詰め、結核に罹っていた啄木の死期を早めたといっても、過言ではないでしょう。
当時啄木が節子に書かせていた家計簿を、資料に載せてお見せしました。郁雨と絶交してから啄木の死の翌日まで、毎日書かれているこの家計簿からは、郁雨に頼らず、人に頼らず、生きていこうという啄木の決意が感じ取られます。同時にこれを記していた節子の切ない気持ちが、ひたひたと伝わってくるのです。
啄木と節子の間に郁雨を置いてみると、節子の家出以降の啄木の生活態度や文学観の変化など、解けてくることがたくさんあります。そのことについて、函館で見つけた資料などもいくつかあるのですが、それらを使って詳しくお話しする時間はありませんでした。

●I am young

二六年二ヶ月の生涯のうちの一〇年五ヶ月──これが、啄木が「書いていた時間」です。短歌・小説・評論・日記・手紙・新聞記事……書きに書きました。しかも「書く」ということについて、彼ほど深く「自らに」問い続けた人も珍しいのではないかと思います。つまり自分にとって「書く」とはどういうことか、その意味です。そしてそれを考えることが、自分は何者かと、「自らを」問うことへとつながっていきます。
近代文学研究家の上田博氏は「自らを問うことの激しさと切なさは、日本の近代文学者のうちで啄木の右に出る者は居るまい」と書いています。
激しく切なく、自らに問い、自らを問い続けた、その姿が端的に表れているのが、「ローマ字日記」なのですけれども、この中に‘I am young, and young, and young.’(ぼくは、若いんだ、若いんだ、若いんだ)と啄木は書き付けています。簡単な英文ですが、実に胸に響きます。
啄木は言います。「予はなぜ親や妻や子のために束縛されなければならぬか?親や妻や子はなぜ予の犠牲とならねばならぬか?」自分と家族との関係を「束縛」と「犠牲」の上に成り立つと捉え、「なぜ」と自問しながら、文学も家族も、彼は捨てることができません。
文学に没頭したい、ただ書いていたい……しかし叶わぬことでした。未来を信じたかったでしょう。若さを確かめたかったでしょう。I am youngは、こんなに若い(のだからどうにかなるだろう)という楽観の意味も、こんなに若い(のにどうすることもできないなんて)という悲観の意味をも併せ持つ言葉なのでしょう。おそらく啄木の中で両極を揺れていたに違いありません。
「ローマ字日記」について、なぜローマ字であったのか、ということについても、私見を述べました。端的に言うなら、ローマ字は読みにくい、ということです。
日記を漢字仮名交じり文で書いた場合、他人に見られる心配もさることながら、自分自身も読みたくなくても目に入ってしまいます。当時の彼の心境を考えるならば、日記を読み返すのは辛い行為であったに違いありません。しかしローマ字で書かれた日記は、意識して読み返そうとしなければ、向こうから意味を伴ってやってくることはありません。
そしてまた、漢字仮名交じり文で書かれたよりも読みづらいローマ字は、プライドの高い啄木、自分を天才であると自負してやまなかった啄木が、自分の弱さに直面するときに、痛みをやわらげるクッションのような役割も果たしたのではないかと思われます。
啄木自身はローマ字で書き始めたことについて、「妻を……愛しているから……日記を読ませたくない」と書いていますが、「妻」を「自分」に、「読ませたくない」を「読み返したくない」に言い換えることも可能なのではないでしょうか。
「ローマ字日記」の啄木は自分の問題と向き合っていました。幾重にも絡まったそれらと真剣に向き合い、必死に解決の糸口を探していました。時に前のめりに倒れ込むような、異様なペンの勢いは、当時の彼がのっぴきならないところまで追い詰められ、その状態を超えずには先へ進めない、との固い決意のもとにあったであろうことを窺わせます。
彼は書かねばなりませんでした。今を乗り越えるために。しかし書いたものを、自分がさらけ出したものを、できるならば再び読み返したくはなかったでしょう。ローマ字は当時の啄木の、そのような心情を反映した表現方法ではなかったかと思うのです。

●『一握の砂』

啄木の作品からたった一冊選ぶとしたら、やはり『一握の砂』なのだろうと思います。啄木の作品からと言わず、近代以降のすべての歌集の中でも突出しています。その文学性だけではなくて、実に多くの人に読まれ、そして影響を与えたという意味においても。
「暗誦に堪える歌」そして「どんな人にもわかる歌」──それが私がいいと思っている歌の基準なのですが、啄木短歌の特徴は、そのような「暗誦性」と「普遍性」を備えているということです。啄木のうたがたくさんの言語に翻訳されて、世界中で読まれているということもそれを示していると思います。
しかしそれらの歌は、突如として舞い降りてきたわけではありません。彼の体験が生み出したものです。『一握の砂』の五五一首すべてが東京で作られたものですが、歌集には、ふるさとの岩手や、漂泊の一年間を過ごした北海道でのことが、たくさん歌われています。体験が生きているのです。
井上ひさし氏は、啄木短歌は、日本人の「心の索引」だと言っています。私たちは日々様々な感情を抱きながら生活していますが、嬉しいとき悲しいとき虚しいとき、『一握の砂』を開くと、その感情にぴったりの歌が必ず載っています。啄木のうたには、自分がいるのです。淋しいとき苦しいとき切ないとき……どんなときの自分もこの一冊におさまっているのです。
節子との関係をお話ししたときに、節子は啄木の「我ならぬ我」(=もう一人の私)だったと言いましたが、啄木というのは、私たちにとっての「もう一人の私」なのでしょう。

……そんなことをお話しいたしました。
熱心に聞いてくださった皆さんに感謝しつつ。



このページの先頭へ