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啄木と表現

──口語と文語をめぐって

田中 礼

 啄木が詩歌でそのおもいを抒べる時、どのように口語、文語を使ったかということは、啄木の継承の上で大切である。そして口語、文語の問題を考える上に、明治時代での言文一致運動が前提になってくる。それは詩歌にも大きな影響を及ぼした。①
言文一致運動とは、「文」〈書きことば〉を「言」〈話しことば〉と一致させるための運動であるが、明治十七年から~二二年にかけて、二葉亭四迷、山田美妙らの言文一致小説が現れ、短歌の分野では、林甕臣(みかおみ)が、「言文一致歌」ということを提唱している。

(1)(前略)万葉集ヤナニカノ古い歌ノ中ニ其ノ世ノ俗言方言ノママニ口カラ出マカセノヤウナノニカヘツテ感心セラルヽノガオホイガ、ソレヲミテモヨウワカルコトヂャ。歌ハ殊ニ言文一致デナケレバナラヌハズデアル。

情の動きを直接的に述べるのが、短歌であるならば、それこそが言文一致体すなわち口語であるべきだ、それは万葉集の頃からそうなのだという林のこの指摘は説得性のあるものである。けれども林の挙げた次のような試みは、「海上胤平などから冷笑され、歌壇的にもほとんど反響がなかった」(渡辺順三)。②

(2)やれ窓に氷れる月の影さして北ふく風に狐なくなり(寒夜月)
(3)ギラ〳〵ト。ヤブレ障子に。月サエテ。風ハヒウ〳〵。狐キャン〳〵。

(3)は(2)の口語訳だが、(2)の文語歌には、歌の情趣は感じられるが、(3)の
「風ハヒウ〳〵。狐キャン〳〵。」では、冷笑されても仕方なかったのかも知れない。
それから二十年近くの歳月が経過した。明治三十年代後半期になると、青山霞村、西出朝風、鳴海要吉らが口語短歌の運動を始め、「現代の短歌は現代の用語で」という主張が影響力を持つようになった。③

(4)これやさかいこれやさかい厭やと女達さわく(?)山路蛇横たはる
(青山霞村『池塘集』明治三九年)
(5)一枚のケットの上に縁あってかなしく眠る親子三人
西出朝風
(6)資本主義──官僚──そしてその下にふるへてゐるのかあはれな教師
秋田としみつ

「口語歌は次第に全歌壇の関心」を引く状況になったが、そこで自由律の提起が出て来て、ことは、口語、文語の問題に止まらず、定型か自由律かが併せて論議の対象になった。
前田夕暮は『日光』の第二号に「僕の口語歌」という文章を発表した。

(7)いま流行してゐる口語歌は多くは文語歌のテニオハを口語に訳したやうな者であって、あんな歌なら文語歌で一苦労も二苦労もしてゐる現代歌人にはすぐ出来る。……
少くとも口語歌といふ以上その発想法も口語的でなければならぬ。……口語的発想をするならば、三十一字の詩形を打破してこそ初めてより自由な天地が開けて、其処に新しい口語歌運動の新舞台が出現するものと思ふ。

これは自由律への呼びかけである。
大正一四年五月、口語歌雑誌『芸術と自由』が創刊されて、口語歌運動の全国的統一への機運が促進される。(渡辺順三)しかし、「それはやがて新短歌協会内の自由律派と定型派とのはげしい論争となり」、協会は分裂する。
矢代東村、前田夕暮、石原純、大熊信行らは自由律短歌へ向かってゆくのである。
ちなみこの歌人たちの昭和へ入ってからの自由律作品には次のようなものがある。

(8)戒厳地帯のくろい構想に脅かされる。
雪は惨ましく鉄条網に散らされてゐた。
石原 純『新短歌一九三七年』
(9)自然がずんずん体のなかを通過する
────山、山、山
前田夕暮「水源地帯」

以上の言文一致運動の流れを踏まえて、そのなかに明治四十年代の啄木を位置づけてみよう。この間啄木は詩歌について、どのように考えていたか。また、実作者として、口語と文語にどのように関わったであろうか。評論「弓町より(食らふべき詩)」(明治四二・一一・三〇)によって、彼の意とするところをみよう。
次はしばしば引用される箇所である。啄木はここで何を言っているか。

(10)謂ふ心は、両足を地面(じべた)に喰っ付けてゐて歌ふ詩といふ事である。実人生と何等の間隔なき心持を以て歌ふ詩といふ事である。珍味乃至は御馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、然く我々に「必要」な詩といふ事である。──斯ういうことは詩を既定の或る地位から引き下ろす事であるかも知れないが、私から言へば我々の生活に有っても無くても何の増減もなかった詩を、必要な物の一つにする所以である。詩の存在の理由を肯定する唯一つの途である。
(11)ああ「淋しい」と感じた事を「あな淋し」と言はねば満足されぬ心には、無用の手続があり、回避があり、胡麻化しがある。其等は一種の卑怯でなければならぬ。

一読して明らかなように、啄木は「実人生と何等の間隔なき心持を以て歌ふ詩」「我々の生活」に「必要な詩」を作ろうと主張している。そして、ああ「淋しい」を「あな淋し」と言うのは、「無用の手続き」「回避」「胡麻化し」「卑怯」だと、痛烈に批判している。とりわけ(4)などは、口語詩の主張だと受け止められても仕方のないところがある。
けれども啄木は、実人生と直接相亘る詩、我々の生活に必要な詩がすなわちその時の「口語詩」だとまでは言い切っていないように思う。啄木と口語詩の主張は全く重なっているということではない。「食らふべき詩を全体的に読んでみると、実のところは啄木は、新しく現れた口語詩にかなりの不満を持っていたように読める。
「食ふべき詩」には、啄木の言う「旧詩人」の側からの、「新しい詩への批判」が紹介されている。そしてこの「旧詩人」の側からの指摘は、どうも啄木自身の本音と一致しているように思われる。

(12)
1、新しい詩の今迄の詩との相違は、「なり」と「である」若しくは「だ」の相違にすぎない。
2、文語によると口語によるとは詩人の自由である。
3、現代の日常語は詩としては余りに蕪雑である。
4、口語詩の内容が貧弱である。

たしかに評論「食ふべき詩」では、口語詩への賛同が語られている。けれども文章の底流に新しく出て来た口語詩への不満が匂わされていることは否定できない。右の1~4などに示された口語詩への不満は、啄木もまた共有するところであったと思われる。
啄木は早く詩集『あこがれ』(明治三八・五・三)によって、文語詩壇に登場していた。
「『あこがれ』は啄木の青春の夢の記念碑であるといえる。出版当時の評価は二分されており、『明星』系の人々が啄木の若々しい(出版時に満一九歳)感情と若さに似合わぬ完璧な技巧を絶賛したのに対し、『帝国文学』等が、若さのゆえの模倣性・衒気・無内容さを痛罵した。」(今井泰子)ということで、『あこがれ』の評価は、二つに分かれた。⑤

『あこがれ』は、薄田泣菫、蒲原有明の模倣を含むということで、口語詩の進展のなかで、ほとんど評価されなくなった。けれども『明星』の批評家平出修弁護士は、啄木のために次のように弁じた。

(13)此少年詩人の創造力は、我等寧ろ今の世の驚嘆に価するを思ふ。若し又、啄木が用ふる所の新様の語に、たま〳〵泣菫・有明二氏の詩中に見ゆる語あればとて、そは二氏の専用にもあらざるべし。況んや啄木の自ら選択せし語彙は甚だ豊富にして、遒麗、清新、その日本語の美を知れるは、彼の土井晩翠氏等の企て及ばざる所なるをや。」
(『明星』明治三八・七)

「年少詩人」啄木には、すでに古今の語彙、文語体のリズムが、豊かに蓄えられていた。幸徳秋水ら処刑の年、明治四十四年に書かれた詩が文語体に戻ったのは、当時の啄木にとって、暗黒時代での意識を表現するのに、文語が相応しかったからであろう。当時の口語表現は、圧しひしがれたなかでの意識を示す調べをまだ獲得していなかったとも考えられる。

(14)暗き、暗き曠野にも似たる/わが頭悩の中に、/時として電のほとばしる如く、/革命の思想はひらけども──
(15)我は知る、/その電に照し出さるる/新しき世界の姿を、/其処にては、物みなそのところを得べし。
きびしい孤独、絶望と怒り、けれどもそのなかで、自分には「新しき世界」を見通せるという確信、このような精神状況は文語でないと表現できなかったのであろう。

短歌についてはどうか。
啄木の歌は明治四三年に入ってから、口語的発想のものが多くなる。けれども、時代閉塞の状況、日韓併合、大逆事件への反応のなかで、文語歌が現れる。これは、先の詩(「呼子と口笛」)の場合と同じであり、逆行現象のように見えるが、本質的には、むしろ画期的な作品を作ったことになる。

(16)何となく顔がさもしき邦人の首府の大空を秋の風吹く
(17)つね日頃好みて言ひし革命の語をつゝしみて秋に入れりけり
(18)今思へばげに彼もまた秋水の一味なりしと知るふしもあり
(19)この世よりのがれむと思ふ企てに遊蕩の名を与へられしかな
(20)秋の風われら明治の青年の危機をかなしむ顔なでゝ吹く
(21)時代閉塞の現状を如何にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな
(22)地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつゝ秋風を聴く
(23)明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも
「九月の夜の不平」(三四首より)
『創作』(十月一日)十月短歌号、第一巻第八号

明治四十三年十月四日、啄木は東雲堂と歌集出版の契約を結び二十円を受け取り、十二月一日、歌集『一握の砂』は出版された。しかしこの歌集には上記(16)から(20)の歌は省かれている。
近藤芳美は、なぜ啄木がこれらの歌を「抹殺」しなければならなかったかについてきびしく問いかけている。近藤は言う。これらの作品は『一握の砂』の作品の「最良の部分と並べて決して劣るとは言えぬ。否、むしろ、啄木のそれまでの文学にまつわる過剰の感傷を絶っていることにおいて新しい世界の展開をも予想させる。」その中には「新しいリアリズムへの指向、あるいはさらに「思想詩としての兆し」があると。⑥
短歌はこの時点で新しい所へ進み出ようとしていた。
碓田のぼるも、(17)の「つね日頃…」(20)の「秋の風…」、(20)の「時代閉塞の…」、といった作品について、啄木が日本の短歌が本来もっていた「内ごもるひよわな個の詠嘆」を、「歴史的視野」へ広げていったという指摘をしている。
そうだとすれば、(16)から(23)の作品は、日本の短歌の歴史のなかで、画期的な意味を持つ作品であり、未来の短歌へ大きな展望を示すものであろう。
評論「一利己主義と友人との対話」で啄木は短歌についての考えを語っているが、彼は、いわゆる「古い言葉」と口語とを、完全に対立するものとしてとらえていない。
ここでは啄木は、短歌ではなるべく現代の言葉を使って、それで三十一文字になりかねたら字余りにすればよいと言っている。
啄木はまた、歌の調子はまだまだ複雑になり得ると言い、昔は歌を五七五、七七と二行に書いていたが、明治になって「一本に」書くようになった、今度はそれをこわし、一首一首別な分け方で何行かに書くことにするという。つまりここでの彼の主張は、定形の枠内での、句われ、句またがりの活用や、多行書きにしたらどうかということであって、前田夕暮のように、自由律を主張しているのではない。啄木が字余りに寛大であることから、その歌論から自由律論を引き出した歌人もあるが、それは、啄木の意図を正しく伝えているとは言えない。

(24)古新聞!/おやここにおれの歌のことを賞めて書いてあり、/二三行なれど。
(25)何か、かう、書いてみたくなりて、ペンをとりぬ──/花活の花あたらしき朝。
歌稿ノート (明治四三年十一月末より四十四年八月二十一日まで)「一握の砂以後」

啄木は瞬間(いのちの一秒)の意識、思想内容を基盤に置き、その表現のために、口語(現代語)と文語(昔の言葉)のそれぞれの長所を、自在に使い分けた。
(24)の「おやここに」に、(25)の「何か、かう」などは、口語でなくては表現できない意識であるが、同時に「二三行なれど」(24)や「ペンを取りぬ」などは、文語を活用して歌の調子を守っている。
先の文語歌にしても、(21)の「時代閉塞の現状を…」とか、(23)の「明治四十三年の秋…」とかいったように、いきなり現代語を押し出して古典和歌の調べを破り、新しい文語調とでもいえるものを作り出している。
啄木短歌の表現は、多くの継承してよい問題を含んでいるように思われるのである。

 


 

①山本正秀「言文一致」(『日本近代文学大事典』講談社 昭和五十二年)一四〇~一四二頁
②③④ 渡辺順三『近代短歌史』(昭和二五・八・一五 真理社)
⑤今井泰子 注釈 (日本近代文学大系23『石川啄木集』角川書店 一九六九)三九頁
⑥近藤芳美「『九月の夜の不平』など」
(『石川啄木全集第四巻』筑摩書房「月報」8 一九八〇)



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