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石川啄木─そのナショナリズムの発光と展開

碓田のぼる

はじめに

石川啄木におけるナショナリズムは、難かしい問題を含んでいるように思います。それは、絶対主義的な明治の天皇制国家づくりとかかわって、登場して来た近代日本のナショナリズムと深くかかわり、また、日清戦争後の日本の資本主義の急速な発展と深くかかわっている様に思えるからです。
手に負えないような問題ですが、私の問題意識の中には、啄木との関係で、いま三つの浮漂があります。
一つは、日露戦争初期の、ロシアの戦艦「ポチョムキン号」の反乱と、啄木の反応。
二つには、これも日露戦争における、ロシアの太平洋艦隊司令官のマカロフの死と、啄木の追悼詩の問題。
三つには、「韓国併合」時における、安重根による伊藤博文暗殺にからむ啄木の反応の問題。
本稿は主として、第二の点にからむ私の問題意識について書いたものです。

(一) 啄木のロシアへのまなざし

みぞれ降る
石狩の野の汽車に読みし
ツルゲネフの物語かな(M43・5・7)

五歳になる子に、何故ともなく、
ソニヤという露西亜名つけて、
呼びてはよろこぶ。(M44・7・10)

ボロオヂンという露西亜名が
何故ともなく、
幾度も思い出される日なり。(M45・6・20)

たとえば、『一握の砂』所収の一首目や、『悲しき玩具』所収の二首目、三首目などを読むと、啄木の露西亜に対する、それこそ「何故ともなく」親近感がただよって来ます。ツルゲネフはトルストイと並ぶ「ロシアで最も偉大な二人の作家」(クロポトキン『ロシア文学の理想と現実・上』岩波文庫 一六〇頁)でした。また、ソニヤについてのモデル詮索(せんさく)は色々ありますが、啄木の好みに即して考えると、ロシアの女性革命家ソフィア・ペロフスカヤであろうし、「ボロオヂン」は、啄木が愛読した革命家クロポトキンの変名です。
一首目の「ツルゲネフ」はやや軽く歌われていますが、同巧異曲の二首目と三首目の「ソニヤ」と「ボロオヂン」には、思い入れの強さを感じます。啄木の露西亜革命の歴史への関心の強さの一端は、詩「はてしなき議論の後」の所でも見て来たことです。
こうした露西亜への理解をもった啄木が、プーシキンについて、ほとんどその全著作の中に名前さえ書き残していないのは、私にとっては不思議であり、啄木への不満となっています。

啄木は生涯にわたって、ゴーリキーへの強い関心を示し、その作品を読んでいます。ある研究者の調査によると、啄木の日記・書簡・小説・評論の中で言及している西洋人名は、百六十五人で、瀕出度の一位はニーチェの四十一回、二位はゴーリキーの三十九回、三位がトルストイの三八回などとなっておりました。ニーチェは、ごく若い時に集中的に出ているわけで、ゴーリキーやトルストイとは、その意味合いはちがうようです(大谷利彦『啄木の西洋と日本』研究社・一九七四年十二月刊による)。
そのゴーリキーが、『ロシア文学史』(上下・岩波文庫 山村房次訳)の中で、プーシキンについて、次のように述べています。
「プーシキンは、文学は第一級の重要性をもった、民族的な仕事だということ、役所にかける仕事や宮廷における勤務よりも、よりたかい性質のものであることを感じた最初の人である」。(上・一九三頁)
「─まもなく彼は銃殺された。かれの運命は、歴史の意志によって、ちっぽけな、卑劣な、貧慾なひとびとのあいだで生きることを余儀なくされた、あらゆる偉大な人物の運命と完全に一致する」。(同・二二二頁)
啄木のゴーリキーへの熱中度から見れば、この文章あたりに出合ったのでは、と想像するものの事実はわかりません。ともあれ、ゴーリキーがプーシキンを高く評価していたことを、啄木が全く知らずに過したなどとは、とても考えられないことです。

話の筋は少し変りますが、啄木が、「戦艦ポチョムキン」に賛辞を送ったことは、よく知られていますが、実は同じように日露戦争の初期にも、啄木は、「マカロフ提督追悼の詩」という、敵将追悼の長詩を書いています。明治三十六年六月十三日の作詩で、雑誌「太陽」八月号に発表したものです。
この詩の真実を理解するための前提として、啄木の日露戦争観─ナショナリズム─にふれておきたいと思います。以下、友人への手紙や、「岩手日報」に連載した「戦雲余録」(明治三十七年三月三日から、三月十九日まで、八回)、さらに「渋民村より」(四月二十八日より五月一日まで、四回)の中から、いくつかを引いてみます。
「(前略)小生は、あらゆる不平を葬り去りて、この無邪気なる愛国の民と共に軍歌を唱へんと存じ候」。(明治三十七年二月十日。野村長一宛)
二月十日は、「露国に対する宣戦の詔」の発せられた日です。天皇の名による宣戦の布告です。
「天佑(てん ゆう)ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐(ふ)メル大日本国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆(ゆうしゆう)ニ示ス」にはじまり、「速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」で終る、国民に対する叱咤激励です。日清戦争の時も、太平洋戦争の時も、起章の言葉と結語は全く同じです(村上重良編『近代詔勅集』一九八三年。新人物往来社による)。

「今の世には社会主義などゝ云ふ、非戦論客があって、戦争が罪悪だなどゝ真面目な顔で説いて居る者がある。」(「戦雲余録」第二回・三月四日)
「露国は我百年の怨敵(おんてき)であるから、日本人に取って彼程憎い国はないのであるが、一面から見れば露西亜程哀れな国はない。」(前同・第六回・三月十二日)
「今度の日露戦争が単に満洲に於ける彼我の権利を確定して東洋の平和に万全の基礎を与へるのみでなく、更に世界の平和のために彼の無道なる閥族政治を滅ぼして露国を光明の中に復活させたいと熱望する者である」。(前同)
ここに見られるのは、十九歳の若い啄木の、才気ばしった日露戦争肯定論であり、戦争と平和の問題を二項対立として捉えながらも、世の進歩のために戦争は必要であると言う立場が、露骨に見えています。
「近時戦局の事、一言にして之を云へば、吾等国民の大慶この上の事や候ふべき。臥薪(が しん)十年の後、甚だ高価なる同胞の資財と生血とを投じて贏(か)ち得たる光栄の戦信に接しては、満腔の誠意を以て歓呼の声を揚げざらむ」「東海君子国の世界に誇負する所以」(「渋民村より」第一回・四月二十五日)
何とも、明治政府の展開した戦意昂揚の政策を鸚鵡返ししたような文章です。
以上引用が長くなりましたが、啄木の「マカロフ提督追悼の詩」の異様性を考える上では、啄木の当時の思想と心情を、一つの状況として明らかにしておく必要があると、私は思ったからです。

「マカロフ提督追悼の詩」は、十連百三行にわたる長詩です。この詩には、次の前詞がおかれています。
「明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊は大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督之を迎撃せんとし、愴惶令を下して其旗艦ペトロパブロスク号を港外に進めしが、武運や拙なかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦艦と運命を共にしぬ」。

(二) マカロフと廣瀬武夫をめぐって

「マカロフ提督追悼の詩」の中の第三連の十行と第九連の後半部分を引用します。
ああ偉(おお)いなる敗者よ、君が名は
マカロフなりき。非常の死の波に
最後のちからふるへる人の名は
マカロフなりき。胡天の孤英雄、
君を憶(おも)へば、身はこれ敵国の
東海遠き日本の一詩人、
敵乍(かたき なが)らに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、〈鬼神も跼(ひざま)づけ、
敵も味方も汝(な)が矛(ほこ)地に伏せて、
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。〉
(以下四行略)
ああよしさらば、我が友マカロフよ、
詩人の涙あつきに、君が名の
叫びにこもる力に、願くは
君が名、我が詩、不滅の信(まこと)とも
なぐさみて、我この世にたたかはむ。
(前四行略)
この詩の最後の十連は十五行ですが、さらにその最後の五行は、次のようなものです。
敵も味方もその額(ぬか)地に伏せて
火焔(ほのお)の声あげてぞ我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて千古の浪狂ふ
弦月遠きかなたの旅順口。
啄木のマカロフへの思い入れは、極めて強いものがあったことは、引用した部分だけ読んでもわかります。啄木の詩的感動は、この詩を一息に書き上げていったように思います。啄木は詩想が湧いてくると、筆をかみながら構えたと、ある友人への手紙に書いていますが、マカロフ追悼の詩は、恐らくペン書きだったろうと思われます。筆では、啄木の詩的感動の展開に追いつかなかったような気がするからです。
啄木は、なぜ敵将マカロフを歌ったのか─について、啄木研究の上では、弱者・敗者に対する啄木のヒューマニズムによる憐憫(れんびん)であるとか、日本的武士道の精神の残影であるとか、さまざまに言われて来ました。しかし私は、この詩が、一果一因のように一つの理由できめつける事は出来ないように思います。啄木のこの詩の感動の性格を見きわめようとする、さまざまな論者の意見は、いずれもこの長詩を読んでの感じなのであって、「物証」があるわけではありません。むしろ、啄木のこの詩への感動には、どの見解もすべて含まれているようであり、また、どの見解にも含まれないところの、α(アルフア)かβ(ベーター)なりがまだあるのでは、と私にはひそかに感じられます。

私が、啄木の「マカロフ提督追悼の詩」に持つ疑問は、その作詩意図の問題もさることながら、のちにやや詳しく述べるように、マカロフ提督がその旗艦とともに命運を共にした時期とほぼ重なって(正確には十二日前に)、日本の?合艦隊が展開した、旅順口閉塞作戦で、廣瀬武夫少佐が戦死した問題にかかわります。啄木のナショナリズムは、国民的英雄として惜しまれ、軍神と賛えられ、また小学唱歌にも歌われた廣瀬武夫に向かわずに、その詩的感動がなぜマカロフに向ったのか、という疑問です。
旅順港は入口が狭く、奥が深くなっています。旅順の丘の要塞に構えられた砲台は、旅順港全体を射程距離内においていましたから、ロシアの太平洋艦隊は、安全な港の奥に逃げ込んで籠城をきめこんでいました。日本の連合艦隊がどんなに歯軋(は ぎし)りしても、港内に突入することは出来ません。そこで考えられた作戦は、いっそ、ロシア艦隊を港に閉じ込め、陸上での戦いを進めて、旅順要塞を落とそうと言うことでした。その作戦の具体化が、旅順口に古い商船を何隻か沈めて閉塞しようということでした。
この旅順口での攻防戦について、作家児島襄(こじまのぼる)の『日露戦争』(文春文庫・全六巻。一九九四年一月)第二巻は、詳細をきわめています。以下の叙述は、これを参考としたものです。
問題を時系列的にわかり易くするために、広瀬武夫のことから述べます。
旅順口閉塞作戦は三回にわたって行なわれましたが、第一回は失敗に終りましたが、広瀬武夫少佐は第一次閉塞船五隻のうちの一隻「報国丸」の指揮官でした。第二次閉塞作戦にも閉塞船四隻の一隻である「福井丸」の指揮官として、指揮官付の杉野孫七兵曹とともに乗り込みました。三月二十三日に出撃命令が発動されたものの天候急変のため出撃がのび、三月二十六日に出撃、翌二十七日の夜、広瀬武夫は予定地点での「福井丸」の爆沈を命令。広瀬少佐は沈没しつつある「福井丸」から退避して乗組員とボートに移りました。ところが、杉野兵曹が見えないため、沈みつつある「福井丸」に戻り、船内を探したが見当らずボートに戻ります。しかし広瀬は、杉野をあきらめることが出来ず、二回、三回と、船内とボートとを行きかえりします。さすがにもはやこれまでと、三回目でボートに乗り移った途端、敵の弾丸に当り、「頭脳は微塵に破壊せられ、其の脳漿は飛沫の如く四辺に飛散」し、広瀬少佐の肉体の一片さえも残らなかったと、児島襄は当時の新聞報道を引いています(二二二頁)。「広瀬武夫少佐の死は、日本全国に感動と興奮をさそった」(二二四頁)のでした。
ロシア海軍中将マカロフが、皇帝ニコライ二世によってロシア新太平洋艦隊司令官に任命されたのは二月十四日でした。マカロフは首都ペテルブルグからシベリヤ鉄道に十八日間も乗って、三月八日に旅順に着任しました。マカロフの戦術は、前任者の保守的な戦術とは反対に、機会をとらえては、積極的に港外に打って出て、日本艦隊を港内に誘い込み、旅順砲台の射程内で撃滅しようというものでした。広瀬武夫少佐が戦死した前日の三月二十六日にも、マカロフ中将は旗艦「ペテロパウロフスク」に座乗し、ロシア太平洋艦隊主力をひきいて出港したりしました。
日本海軍は、港口閉塞作戦が香しくないので、新たな補強戦術として、旅順口港外に機械水雷を敷設して、封鎖効果をあげようようと行動していました。広瀬武夫少佐の戦死から十二日目の四月十三日、マカロフの旗艦「ペテロパウロフスク」がまた出港しました。砲台の射程内をギリギリの所まで出て来て、日本艦隊を挑発し、港内に誘い込もうという狙いです。
しかし、旗艦「ペテロパウロフスク」がたどる針路は、まさに夜のうちに日本の第四駆逐隊などが敷設した機雷原上にありました。
「それと気づいた連合艦隊旗艦『三笠』の艦橋は静まり返った。」(二四〇頁)と児島襄は書きます。そして、九時三十九分、旗艦「ペテロパウロフスク」が突然、大爆発し、瞬時と言う形で沈没していきました。司令長官マカロフ中将以上七百七十三人が乗船していましたが、生存者は百二十九人であったと言います。六百四十四人が艦と共に運命を共にしたことになります。
この様子を見守っていた「三笠」艦上には、旅順口作戦の立案者・参謀の秋山真之少佐がいました。秋山真之は、広瀬武夫の親友であり、また、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に登場する正岡子規と小さい頃からの友人でもあります。正岡子規はもう二年前の明治三十五年に亡くなっていました。秋山真之が、連合艦隊司令長官東郷平八郎の参謀として、ロシアのバルチック艦隊に決戦を挑み、勝利を収める日本海海戦(明治三十八年五月二十七日~二十八日)は、まだ一年以上も先の事です。
児島襄の『日露戦争』は広瀬少佐とロシア側に衝撃をあたえた、マカロフ中将の死について、次の様に書いています。
「(二人の死は)「日露戦争」の初期において、それぞれの国民の士気を片や極度に高揚させ、片や極度に沮喪させた点で、まことに対照的である。その意味で、マカロフ中将の死は日本側にとっては有利な要素とみなされ、四月十五日、新聞が中将の死をつたえると、日本国民はより一層の戦意と楽観を刺激された」(二四五頁)。

(三) トルストイのマカロフ批判と啄木

トルストイの有名な「日露戦争論」が、「日本社会主義唯一の機関新聞なり」と銘うった「週刊・平民新聞」に全文訳載されたのは、明治三十八年(一九〇五年)八月七日の第三十八号でした。
このトルストイの論文は、ロンドン「タイムス」の六月二十七日号に寄稿されたものです。八月一日に、ロンドン「タイムス」から「朝日新聞」の杉村楚人冠に、本紙と切抜きとが送られて来ました。楚人冠は、早速、有楽町の平民社の友人の幸徳秋水を訪れ、その一つをわけてやりました。秋水は、堺利彦と分担して、三日間ほとんど徹夜で訳し終え、八月七日の「平民新聞」に一挙掲載となったものです。楚人冠の方は、一人で訳出していましたので、「朝日新聞」は、八月二日から二十日まで、十六回の連載となりました。
「週刊・平民新聞」は、ほとんど全紙をあげて、「トルストイ翁の日露戦争論」の表題のもと、編集部の四百字ほどの前がきをつけ、第一章から第十二章までを一挙掲載した壮観とも云うべきものです。前がきの中に次のような一節があります。
「今や吾人其全文を接手して之を読むに、其平和主義博愛主義の立脚地より一般戦争の罪悪と惨害とを説き、延(ひい)て露国を痛罵し日本を俳撃する処、筆鋒鋭利、論旨生動、勢ひ当る可(べか)らず、真に近時の大作雄篇にして、一代の人心を警醒するに足る者あり」
この部分を読んだだけでも、「週刊・平民新聞」の幸徳秋水や堺利彦らの昂りが感じとれます。「週刊・平民新聞」は、その創刊号(明治三十六年十一月十五日)に掲げた「宣言」の中で、「自由・平等・博愛」の三原則を高く掲げていました。「自由」の思想にもとずく「平民主義」を、また「平等」の思想の実現のための「社会主義」を、さらに「博愛」の思想に立った「平和主義」を強調していました。それゆえ、トルストイの「日露戦争論」の主張の中に、「宣言」の思想と深く重なるもの、つまり「非戦」の思想があることを読みとったものと想像されます。云うまでもなく両者の思想の本質的な相違点については、「週刊・平民新聞」が次号(八月十四日・第九〇号)の巻頭論文「トルストイ翁の非戦論を評す」の中で、明らかにしています。トルストイが戦争の原因を人間の内部の「堕落」に帰しているに反し、社会主義者は「経済競争に帰して」いると言うわけです。

ところで私は、いまここで、トルストイの「戦争論」の内容を深く検討しようと言うのではありません。ここで是非ふれたいと思ったのは、トルストイ論文が第十一章で、啄木があれほど感動し、その悲劇的な死を悼んで追悼の詩を捧げたマカロフに対し、トルストイが、痛烈な批判と糾弾を展開していることについてです。トルストイは、第十一章を次のように書き出しています。
「余は前章を書き終りし時、旅順港外に於て六百の罪なき者殺されたりとの報に接せり、此の六百の不幸な人々が斯く無惨の死を遂げたるを見ては、此破滅の原因たりし人々を糾弾するを以て正当なりとすべし、予の斯く云ふはマカロフ其他士官等の為に非ず」。
トルストイは、この「不幸な人々」が、世界の果にまで連れて行かれて、「残酷無情なる殺人機械の上に載せられ」むざむざと殺され、「其愚かなる機械と共に遙かの海中に沈没」したことを痛憤して、更に続けます。
「人民は皆勇敢なるマカロフの死を語れり、彼が人を殺すに妙を得たるは何人も異議なき所なり。彼等は又数百萬ルーブルを値したる精巧なる殺人機の沈没を悲めり、彼等は又如何にして彼の憐むべき孤漢マカロフにも劣らざる他の虐殺者を得んかと論議し居れり。」
トルストイのマカロフ批判はまだ続くのですが、要約すれば、戦争とは人の殺し合いであり、兵器は、軍艦であれ、大砲であれ、殺人機械にすぎないこと、そして、無惨に命を奪われてゆく「不幸な人々」の立場に立って戦争なるものを糾弾しています。そして、マカロフも、その帝国も、恥ずべき「虐殺者」の立場に立ってやまない──、これが、第十一章のトルストイの意志だろうと思います。

啄木が、「週刊・平民新聞」によって、じかに、このトルストイの「日露戦争論」を読んで筆写までしているのは、渋民村時代から考えれば、約八年後─明治四十四年─のことです。
啄木は、トルストイの「日露戦争論」の第十一章を筆写しながら、処女詩集『あこがれ』に収めた、「マカロフ提督追悼の詩」のことを、間違いなく想起した、と私は思います。トルストイ論文の第十一章は、啄木の「マカロフ提督追悼の詩」の、詩的虚構の土台を掘りくずし、詩的修辞を容赦なく引きはぎながら、そこに、人間の生きる真実をつきつけて来た、と啄木は感じたにちがいないと考えます。
しかし、啄木のすべての作品をしらべても、トルストイの「日露戦争論」のマカロフ批判を中心とした第十一章にからむ、啄木の読後感のようなものを見つけ出すことは出来ません。さりながら、俊敏な啄木が、この問題を素通りしていたとは、私には到底考えられません。

(四) 痛切な「林中文庫」の自己検討

啄木の死の前年の明治四十四年は、慢性腹膜炎の入院手術(二月三日入院、三月十五日退院)から始まっています。その後の啄木は、死に至るまで絶えず高熱に悩まされながら、「大逆事件」の真相を後の世に書き残すため、期待されることのない、無償の努力を続ける一方、広く世界の社会主義運動についても、懸命な知的吸収の努力を続けていました。この時期(明治四十四年)の啄木の活動を、もっとも特徴づけるものは、筆写という方法による学習方法でした。その筆写は次の六点にも及んでいます。
(1)幸徳秋水の獄中「陳弁書」の筆写(一月四日~五日)
(2)トルストイの「日露戦争論」の筆写。「週刊・平民新聞」より(四月二十四日~五月二日)
(3)山川均稿の『資本論』第一巻の内容解説を「大阪平民新聞」より筆写
(4)堺利彦稿の「万国労働者同盟(第一インターナショナル・引用者)を「大阪平民新聞」より筆写
(5)堺利彦訳の「第七回社会党大会」(第二インターナショナル・引用者)を「大阪平民新聞」より筆写
(6)クロポトキン『ロシアの恐怖』(英文)の全文を一カ月以上かけて筆写(十一月十七日)
(2)のトルストイの「日露戦争論」の筆写についての日記が、二回だけ残されています。
「今日熱が昨日と同じ位。(前日は三十七度八分・引用者)平民新聞にあったト翁の日露戦争論を写し出す。」(日記・明治四十四年四月二十四日)
「予は今日トルストイの日露戦争論を写し了った。これが予の病気になって以来初めて完成した仕事である。」(同年五月二日)
啄木は、日記でも言っているように、トルストイの「日露戦争論」は、二月三日以来の死に至る病いの中での、初めての大仕事でした。日記での記載はこの二回だけですが、実は生前未発表の「日露戦争論」に関する原稿ノートが、「林中文庫」と題して残されています(『石川啄木全集第四巻』)。
「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドンタイムス紙上に発表されたものである」と書き出されたこの評論は、ノートで八〇頁に及ぶ(『全集』「解題」。傍線・引用者)と言います。
この世にあらわれなかった、啄木「林中文庫」の、トルストイ「日露戦争論」に関する評論は、『石川啄木全集』の「解題」で、岩城之徳が言うような、「日露戦争論」の「解説として執筆されたもの」とは様相を異にしています。それはむしろ、前述した「週刊・平民新聞」が、「日露戦争論」の全訳掲載した次の号の第四〇号(明治三十七年八月十四日)の巻頭に掲げた「トルストイ翁の非戦論を評す」を読み、この立場に立った、トルストイの「日露戦争論」の批判的検討とも言うべき内容のものとなっているからです。
啄木は、この評論で、日露戦争当時、「週刊・平民新聞」に拠った、一団の明治社会主義者たちの、戦闘的な反戦の役割りを高く評価し、その頃の自らの思想状況についても、厳しい自己検討を加えております。いま読んでも胸のすくような評論です。
啄木は、「日本第一流の記者、而して御用紙国民新聞社長」の徳富蘇峰や、宗教界の指導者である海老名弾正の言説を引き、その中にある帝国主義的なナショナリズムを焙(あぶ)り出しています。啄木が、トルストイの「日露戦争論」にはじめて出合ったのは、まだ渋民村に居た頃です。トルストイ論文が、日本でも広く紹介されはじめた頃、啄木は、雑誌「時代思潮」掲載の英文で読んだのでした。しかし、「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論だが論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった」(傍線・引用者)と「林中文庫」の中で正直に告白しています。語学力が乏しく、大体の論旨もつかまれず「朧気」に、「映じた」だけだと言えば、それは蜃気楼のようなものだったと言えましょう。この時点では、トルストイ論文第十一章のマカロフ批判に、かつてマカロフ賛美の長大な詩を書いた啄木が、身を竦(すく)ませることもなかったにちがいありません。
それはともあれ、客気に満ち、天才詩人としての自負に身を包んでいたような渋民村時代の啄木から見れば、前述の傍線引用部分は、悲痛とも言える自己凝視でした。啄木の「林中文庫」評論の中の一節を引きます。

「当時彼等は国民を挙げて戦勝の恐ろしい喜びに心を奪はれ、狂人の如く叫び且つ奔(はし)ってゐる間に、ひとり非戦論の孤塁を守って、厳酷なる当局の圧迫の下に苦しい戦ひを続けてゐたのである。」(『全集』第七巻・三三五頁)
「予も亦無雑延に戦争を是認し、且つ好む「日本人」の一人であったのである。」
啄木は、トルストイ「日露戦争論」の中のマカロフ批判を、自らの筆先でノートに写し取ったことは明らかです。「時代思潮」のトルストイ論文を幻のように読んだ時とは違います。啄木における思想と文学は、「林中文庫」の段階では、社会主義の方向に大きく飛躍していました。
私がこれまで、いささかこだわって来たのは、啄木の詩的精神が、日露戦争中に、日本ナショナリズムの恰好の手本のような「軍神」広瀬武夫に動かず、敵将マカロフ追悼に向かったこと、そのマカロフが世界的文豪トルストイによって、手厳しく弾劾されている事実を正確に知った時、一言の弁明も残していないのは、どうしてか、といった事でした。
しかし、「林中文庫」の表題のないトルストイの「日露戦争論」批判の評論を読んだ時、とりわけ本稿の中で傍線を付して引用した、啄木の言葉の背後にひそむ深い思念は、私の小さなこだわりへの回答にもなって、啄木は前へ進み出ようとしているのだ、と実感しました。それは、啄木のこれまでの、いくつかのナショナリズムの発光についての、啄木自身の総括のようにも思えることです。



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