■短歌、この一年の成果と課題 (17年11月から18年10月)協会 その3
先達に学ぶ行分け短歌の歌論と作品 伊東 幸惠
「この人は自由な型の短歌をやってるんやよ」と、歌友はその友人に私を紹介してくれました。行分け短歌? やっぱり御存知ありません。新日本歌人誌への出詠も少人数ですが、それぞれの表現で短歌が生み出されています。
幹太く
森厳とした定型樹の前に立ち、
揺すってみたい衝動がある。
上原 章三
ずっと、行分け短歌運動を牽引されて来た方です。〝幹太く、森厳とした定型樹を揺すってみたい衝動がある〟と、静かな情熱と果敢な意志に背中を押されています。
今回、「この一年の行分け作品の成果と課題」についての稿を依頼されたが、一堂に会して学習の場を持ちえない行分け短歌の作者たちに、先達たちの行分け短歌の歌論や作品から学ばせていただくことにしました。
いん、いんと、言葉よ響け。
人間の未来に響け。
この短(みじ)か歌
田中 収
一九四九年に新日本歌人に入会されて以来、一途に行分け短歌の道を歩まれた方で、順三の意志を継ぐ使命を自分に果し、未来を信じ私たちにメッセージを遺して下さいました。
「短(みじ)か歌」について──
短歌において民族を支えて来たものは「謂ゆるみそひともじの型でも又短歌の抒情性でもなく、そのような定型や抒情を生み出した、もっとも根源的な短かさそのものではないか。短歌の短かさとは数量の上の短かさではなく、質的な謂わばそれ自身にエネルギーを蔵す創造的な短かさなのである」(高木市之助)
「われわれは一首の長さにおいては三十一音程度の短かさを民族的な伝統として受けつぎながら、その内部構造は自由律と行分けによって現代の生活感情と口語にふさわしいように変革していくところに新しい短歌形式がある。」(田中 収)
啄木の「歌のいろ〳〵」の一節について
忙しい生活の間に心に浮かんでは消えてゆく刹那々々の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない。仮に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎(と)に角(かく)歌といふものは滅びない。さうして我々は、それに依って、その刹那々々の声明を愛惜する心を満足させることが出来る。
(『石川啄木全集』第四巻)
これに対し、啄木の「歌のいろ〳〵」のこの部分は、一つの弱点をもっていた。それは、短歌の形式を「刹那の感情に従属させ、表現形式についてのハドメを失くし、野放しにされていることである。感動表現における短歌形式の吟味がなく、内部から横溢(おう いつ)する『生命を愛惜する心』に形式を随伴させているのである。短歌定型のワク内ではとどまり切れない『刹那の心』を、安直に『五十一文字になるにしても』と言うことでなく、日本語のもつ表現の豊かな可能性について、見落とさずに深める必要があったのである」。(碓田のぼる)
順三は、「歌のいろいろ」をふまえながら、「われわれの運動の目標は、労働者大衆の現実の生活からわきおこるところの、刹那の感情を表現するものとしての短い詩型、それは長い伝統をもつ短歌の、歴史的な発展としての短い詩の創造にあるのではないだろうか」と述べている。
万葉集をともに学ぶ主婦らと眺め立つ
波の「しくしく」と
詠まれた篠島
田中 収
自由律短歌は、やはり短歌であることを改めて考えてみる必要がある。「われわれは短歌運動をやっているのであって、短歌の否定抹殺ではなく短歌的伝統の継承摂取ということを忘れてはならない」。 (渡辺順三)
「プロレタリア運動が、短歌の革新を目ざし展開して来た歴史的な意味を正しく継承していく上においても、短歌運動が抱えていた弱点や問題点を解明するのは、きわめて重要な今日的課題である、とし、伝統を否定し、それをおき捨てることによっては生まれない。革新のエネルギーは伝統の中にひそんでいる。
(碓田のぼる)
生きること、
吹きつける雨に、濡れること、
みんな愉しい、生きてゆきたい。
赤木 健介
赤木健介は、定型を駆使しえたと言われています。
「改行による表現の質的転換や、口語による美の創造への熾列さ、鮮烈さへの意欲をともなわぬ口語歌は、文語定型を避けて口語で歌っているということにしかすぎないだろう。赤木作品の新鮮さ、独創性は、彼の古典、歴史、詩、小説、短歌や音楽、美術、科学のはば広い摂取によって、その内容主体が時代の暗黒とたたかう意欲や意志によって生みだされたものである」。(向井 毬夫)
単純化について
行進は六本木周辺
防衛庁、米軍機関にたたきつける
「不戦」のシュプレヒコール
歩行者天国、行く遊子らとも和し
「もっと単純化が必要であろう。あれもこれも言おうとして、中心があいまいである。第二、第三行目だけでも一つの歌になり、四行目だけでも一つの歌になり、四行目だけでも他の一つの歌になる。「米軍機関」という説明ではなく、その機関の状態を丁寧に描く必要があるだろう。「歩行者天国」で通行人とも一緒にシュプレヒコールに合わせたことは、丁寧に表現すれば、それだけで歌になるところである」。(田中 収)
「『コトがら』を歌うとなれば、当然のこととして詩型の長短にかかわり、対立と矛盾をはらむ。とりわけ、革命的、プロレタリア短歌的情勢の昂揚という問題があればあるほど、そこには複雑な『コトがら』の表題が、多くの言葉を求めているのである。そこでは、言葉が感動をすくいとめていくよりは、感動を言葉の粗い目からふるい落としていくのである。結局のところ、この道は、抒情、感動の放棄への道をいそがざるを得なくなる。感動の表出、抒情をその本質とする短歌が、短歌ならざるもの、詩への解消に進むのは必然となるのである」。(碓田のぼる)
侵略戦争の拡大。その圧政の中での逮捕、投獄。プロレタリア短歌運動での試練をのりこえ、短歌革新の旗をかかげ、まさに啄木をうけついだ順三。近代短歌史の中で光るダイアローグの歌として評される歌を掲出します。
見解の相違とは裁判長何を言う。
見解の相違で
死刑にされてたまるか。
渡辺 順三