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渡辺順三の生涯と学ぶこと

碓田のぼる

 

はじめに

渡辺順三は一八九四(明治二十七)年九月十日富山市に生まれ、一九七二年二月二十六日、七十八歳で亡くなりました。没後すでに半世紀近く、新日本歌人協会員の中でも、順三を直接知る人は、ごくわずかとなってしまいました。順三に長く接することの出来た一人として、知る限りの順三論を、順三を知らない人びとに伝え、その理解を求めていくことは、当然の責任であると思います。編集部からの求めに応じて書く本稿も、そうした願いの上に立つものです。

(1)

遠い遠い
春を待つ心の切なさだ。
荒涼とした
野道の日暮れ。

渡辺順三の生涯を思うとき、私の胸には、孤愁に満ちたこの歌が、きまって浮かんできます。戦前の順三の第三歌集『烈風の街』(一九三九年四月)に収められている歌です。
「今年の冬はきびしい」と題する六首の中の一首で、一九三七(昭和一二)年に作られ、『短歌評論』終刊号(一九三八年一月号)に掲載されたものです。
戦前の絶対主義的天皇制による暗黒支配のもとで、貧・病に苦しみながら、治安維持法による弾圧とたたかい続けて生きていた順三の姿が、この作品を読むと、ありありとしてきます。順三が「今年の冬はきびしい」と言ったその年、一九三七年七月七日に、いわゆる盧溝橋事件が勃発し、日本帝国主義による中国に対する全面的な侵略戦争が開始されたのでした。前月に成立したばかりの近衛内閣は「国民精神総動員法」を定め、思想統制のより徹底した体制づくりに突入しました。十五年戦争は、こうして本格化していきました。
渡辺順三が「今年の冬はきびしい」と、思わず嘆きの声をもらしたその冬には、特高警察によって、順三が生涯にわたって敬愛した宮本百合子が、執筆禁止の処分にされたのでした。歌壇では、大家も中堅も、そして多くの群小歌人たちが、いずれも戦争賛歌の方向に傾斜していきました。「暑さもきびしかったし、冬の寒さもきびしい」と順三は書き残していますが、そのきびしさとは、まさに、こうした時代の厳しさでした。
「遠い遠い」という繰返し言葉によって導き出されてくる、「春を待つ心の切なさ」は、強い独白です。そこに順三の孤独なたたかいの姿もほうふつとしてきます。
私たちは、戦後史の中で、もっとも突出して異常な「戦争への国づくり」に執念をもやす安倍政権に対し、平和と民主主義を守ろうとする国民的な連帯の力とのツバぜり合いという政治状況の中で、渡辺順三についての思想や、短歌の革新にたち向かった、くずれない精神を学ぶことは、私たちの前進の足がための上で、欠かせない重要性をもつものと言わなければなりません。

 

(2)

手のひらに堅きタコあり
あはれわが
十六年の錐もむ仕事

渡辺順三の第一歌集『貧乏の歌』(一九二四年刊)所収の一首です。順三は、十三歳の時から住込んだ神田の鏑木家具店で、十六年間も働いたのでした。ひたすらに働き続けて来た、自らの青春の日々を、順三はいとしんでいるのです。啄木にならって、順三の表記は三行書きですが、この作品の第二行は一字下げて、内ごもるような詠嘆を表現しています。ここにこめた順三の思いは、決して単純でないように思います。

渡辺順三の生まれた、富山市千石町は千石取りの藩士や千石蔵のあった所からつけられたと言いますが、この町名は今も残っています。
順三の生まれは、没落士族の貧しい家でした。家禄は六十俵の下級武士でしたが、家は代々十万石の小藩富山藩の砲術指南として、二百年近くも続いて来た家柄です。順三の祖父順三郎尚義は六代目ですが、すぐれた人物で、若くして江戸に留学し、髙島秋帆、江川太郎左衛門の学統を継ぐ下曽根金三郎の門に入り、西洋砲術を学び、帰藩して製薬奉行にもなりました。順三郎尚義は、また停雲と号し、漢詩もよくしましたから、小身微禄ながら、富山藩内では著名な人でした。順三の父良三は、順三郎尚義の次男で、分家に出ますが、父順三郎尚義を深く敬愛し、その名前から二字をとって、わが子を順三と名づけました。渡辺順三の血の中には、詩人で学究的な、祖父順三郎尚義の血を濃く受け継いでいるように、私には思えます。
明治維新後、順三の父良三は、小学校の教員をし、校長にもなりましたが、順三が十二歳の時、精神病で亡くなりました。順三は姉夫婦の援助で県立富山中学に入学しましたが、昔かたぎの母親は、他人の世話になることを好まず、母子は自立の道を選んで上京しました。順三は、富山中学に三か月ほど在学したばかりで退学しました。
知人の手づるで、順三は神田の家具店に住み込み小僧となり、母は赤坂の方にあった、後の東京控訴院検事長河村善益の家に住み込み女中となりました。

こうして、順三にとって、学歴といえるものは、わずか高等小学校卒業ていどでした。後年のプロレタリア短歌運動や、戦後の新日本歌人協会結成における指導力、また、生涯を通じての啄木研究や「大逆事件」の研究などに示された、旺盛な探求心と執筆力とは、順三が祖父ゆずりの、本来的にすぐれた能力をもっていたことを思わせると同時に、この少年時代、貧しさゆえに挫折した向学の志を一筋につらぬいていった、並みなみならない努力と精進をものがたるものでした。

 

(3)

渡辺順三が、本格的に歌人としての道を歩みはじめたのは一九一三(大正二)年、十九歳の時からです。この年の三月に肋膜炎にかかり、三か月の入院生活の時に、窪田空穂が選をしていた「時事新報」に投稿したのが縁となり、窪田空穂に師事するようになりました。空穂は、順三の個性を引き出すことを重視し、次第に左傾化していくこの青年歌人を注意深く見守りました。
父を早く亡くした順三にとって、窪田空穂は慈父のようでした。後年空穂が死去した時、順三は次のような作品を残しています。
ある時期に慈父のごとく先生を慕い申しき家具屋の小僧なりし頃
声低く諭したまいし先生をなつかしみ憶うすでに亡き先生(「新日本歌人」’67年6月号)
いまこの作品を読むと、あらためて二人の師弟関係が、人間的な深い所で結び合わされていたことに、強い感動を覚えます。
渡辺順三の短歌とその進路に、決定的な影響をあたえたのは、二十歳の頃出合った『啄木歌集』でした。順三の歌は、以来啄木調に変身しました。第一歌集『貧乏の歌』は、驚くほど、啄木模倣に満ちています。その模倣の中で、順三は己れの歌を砥ぎ出していったのです。
順三は大正デモクラシーの発展の中で、急速に社会主義思想に近づいてゆきました。大正中期には「アララギ」派が歌壇の支配権を確立しました。これに対する批判と抵抗の運動も起こり、「日光」や口語歌雑誌の「芸術と自由」などが大正末年には発行されました。
順三は、「広く我々の社会生活の諸現象に眼を向け」、「よりよき明日の生活」をめざした「芸術と自由」の編集同人の一人でした。「芸術と自由」は、口語歌人の結集をはかり、短歌の革新を目指す上で、一定の役割を果しました。
「時代はまさに狂瀾怒涛のうずまきのなかにあった」と順三は短歌自叙伝『烈風の中を』で、大正期末から昭和初頭の状勢について書いています。短歌の革新運動も、この時代の大きなうねりに支えられたものでした。
一九二八年二月の第一回普通選挙で、日本共産党が社会の表面に姿をあらわし、党の機関紙「赤旗」が、二月一日に創刊されました。この情勢に狼狽した支配層は、三月十五日に、治安維持法の名のもとに、共産党員や自覚的労働者、進歩的な知識人、学生などに対し、大弾圧を加え、千六百余名を検挙しました。小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」が描く「三・一五事件」です。これに抗して、直後の三月二十五日全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成され、機関誌「戦旗」が創刊されました。多喜二の「三・一五」を描いた歴史的な傑作は、この『戦旗』(十一月号、十二月号)に発表されたものです。
各結社に散在し、宗匠主義に反対し、保守的、体制的な短歌の革新をめざす一群の人びとが結集して、一九二八年十月に新興歌人連盟が結成されたものの、機関誌問題で分裂し、坪野哲久・伊沢信平・浅野純一・大塚金之助・渡辺順三など十名が、新興歌人連盟を脱退しあらたに「無産者歌人連盟」を組織し、十二月に機関誌「短歌戦線」を創刊しました。プロレタリア短歌運動の最初の烽火でした。

 

(4)

わずか二十四頁の「短歌戦線」は、歌壇に予想外の影響を与えました。一九二九年三月五日の山本宣治の暗殺、前年の三・一五に続く四・一六の大弾圧などと相次ぐ支配権力の弾圧に抗議した『短歌戦線』五月号は発禁となり、また『一九二九年メーデー記念プロレタリア短歌集』は、刊行と同時に発禁となりました。
こうした状況下で、プロレタリア歌人の戦線統一は急速に進み、七月に「プロレタリア歌人同盟」が結成され、機関誌『短歌前衛』が創刊されるという、弾圧に屈しない運動の展開となっていきました。『一九二九年メーデー記念プロレタリア短歌集』は、無産階級の意識によって、短歌がとり上げられた、最初の歴史的な歌集でした。
前近代的、閉鎖的な歌壇結社は、渡辺順三を中心的な指導者とするプロレタリア短歌運動によって、根底からゆり動かされました。しかし、伝統的短歌を批判するに急なあまり、運動内部にも、政治的偏向があらわれ、スローガン的、非短歌的作品が多くなっていきました。「短歌とは何か」をめぐっての論争が、発展し、いわゆる「短歌の詩への解消論」が大勢を占めたため、一九三二年一月、歌人同盟は解散しました。
一九三三年四月、小林多喜二虐殺の二か月後、これまでの運動の反省に立って、プロレタリア短歌運動の再出発として、順三はあらたに坪野哲久らと「短歌評論」を創刊しました。順三は自己批判をこめて「新しき出発への道標」(「短歌評論」一九三三年十一月号)を書き、もう一度、啄木以来の生活を土台とした短歌運動の出発点にもどって、「いまこそぢっくりと足を地に下ろして出発し直さなくてはならない」と決意したのでした。
「短歌評論」は五年近くも持続し、一九三八年一月、反動化の嵐の中で、ついに廃刊となりました。

ある子供は
大きな柿の樹を描いてゐて
枯枝の一つ
赤々と実を。

順三の第二歌集『烈風の街』所収の「冬景色」と題した作品の一つです。一九三八年の「短歌評論」終刊ごろの作歌と思われます。
冬日和のある日、小学生たちが道ばたで、写生していたのを見ての作品です。順三は無心に子どもたちの描く絵にひかれながら、枯枝に木守りのように残っている、赤々とした柿の実が心に沁みて来て、その感じを素直に歌ったものでした。
この時から三年後の、一九四一年十二月八日、日本帝国主義は、侵略的な太平洋戦争を開始しましたが、渡辺順三はその翌日、特高によって治安維持法違反で検挙されました。矢代東村、坪野哲久、小名木綱夫をはじめ、「短歌評論」時代の主なメンバーが全国的に検挙されました。「短歌評論」グループ事件と言われるものです。
その時、順三の取り調べで特高警察は、前掲の「ある子供は」の歌を持ち出し、この歌で、「赤々と実を」の「赤い実」は、「日本共産党は健在だと暗示しているのだろう」と執拗に追及しました。順三のいかなる抗弁も聞こうとはしませんでした。特高警察は、プロレタリア短歌運動の一挙手、一投足、つまり、歌をつくり、評論を書いたりすることだけでなく、人間の感性を含めた一切を、彼らは非人間的な特高史観に結びつけて、断罪し続けたのでした。
人間の言葉や感性が通用しないとなれば、もはや、文学・芸術の息する余地はありません。これがファシズムの時代でした。
その意味で、「ある子供」の歌は、狂気の時代を証言する歴史的な作品となった、と言うことが出来ます。
この、戦争と狂気の時代に抗して、順三は一九四〇年の春から、筆を折りました。
「短歌評論」の活動の中で、投獄された歌人たちの歌を読むと、今も胸を打ってきます。

ひとときを
心呆けていしわれか、
手を動かせば手に手錠あり(渡辺順三)

軍閥の奴隷とならず
獄にあり
頭をあげて わが生きてあり(山埜草平)

啄木のもてる真実を
知るまでには
牢にも入らねばならざりしなり(大塚金之助)

斎藤茂吉は戦後に「軍閥といふことさえも知らざりしわれを思へば涙しながる」と歌いましたが、前掲作品と何と大きなへだたりがあることでしょう。
昂然として、侵略戦争に反対し、平和と民主主義を守ることに生きることと、歌とを結びつけてたたかった立場こそ、私たちの民主的短歌運動の背骨をなすものです。それは、十五年にわたる侵略戦争賛美に、民族の詩型式短歌を捧げた、近代短歌史の汚辱の頁を、清める私たち先輩たちの、そして私たち後進の、歴史に対する深い矜恃ともいうべきものです。

 

(5)

久々に会いしこの友も
痩せており、
吾ら忍苦の日の長かりし。

一九四六年二月、渡辺順三は、「忍苦の日」を生きのびて来た「この友」あの友らと、いち早く新日本歌人協会を結成し、機関誌「人民短歌」(のちに「新日本歌人」と改題)を創刊し、民主的な短歌運動の、あらたな出発のために全力をつくしました。順三は、「人民短歌」創刊号の巻頭で、「短歌の高く正しい発展のために、その庶民性、民主性を取り戻さなくてはならない」ことを強調し、「人民大衆の生活実感を根底とした、芸術的に秀れた短歌を創造せねばならない」と訴えたのでした。順三は五十歳をこえていましたが、水を得た魚のように、病身を励まして活動をはじめました。平和や民主主義を守るたたかいにも積極的に参加していきました。

わが父祖もかかるなげきはせざりしよ
基地七百に
せばめられ生く。

見解の相違とは裁判長何を言う。
見解の相違で
死刑にされてたまるか。

前歌は、日米安保条約によって、アメリカに従属し、日本中に米軍基地のはりめぐらされている状況への批判と嘆きです。後歌は、一九五三年十二月、松川事件第二審判決に対する、激しい抗議の歌です。プロレタリア短歌運動以来の、たたかう歌人渡辺順三の面目躍如たるものがあります。

かがやきて木も草も芽ぶく季となりぬ。
芽ぶきくるものの
みなぎる力。

スモッグの夜空に
一つかがやける星あり、
党の未来の如く。

渡辺順三の短歌の特色は、平明で、しっかりと大地に足をおろしており、その言葉は決して華やかではありません。しかし親しみ深く、働く人びとの生活の中にあって、しっかりと燃えている歌です。言葉が、コトガラの上をすべらず、読む人の感性にとどくゆえです。
さて、渡辺順三が、近代短歌史のなかで果して来た、もっとも注目すべき業績は、終始一貫、働く人々の立場に立ち、未来に向かった歌声を、全力をあげて発展させることに努力してきた点でした。石川啄木が、かつて「食ふべき詩」で強調したように、詩を高踏的、観念的な、言葉のあそびから引き下ろし、生きて未来をひらこうとする人間の、生なましい現実とのたたかいを正面に据え、啄木以来の短歌革新の正系を、受け継ぎ、発展させて来たことでした。
渡辺順三が、その生涯を終えたのは、一九七二年の二月二十六日の朝でした。戦争讃歌を、一首も口にしなかった、この稀有の歌人の七十八歳の生涯を浄めるように、この日、しんしんと雪が降り続いていました。

(二〇一八・一二・二五)



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