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現代に息づく啄木(1)

(2016年日本福祉大にて)
長野 晃

(今なぜ啄木か)

一昨年4月、私は柏崎市にある、日本文学研究者ドナルド・キーン文学記念館を訪れました。そこでキーン氏が「啄木は現代人、子規は近代人」と述べていることにカルチャーショックを受けました。
今年2016年は、啄木生誕130年にあたりますが、啄木亡きあと百年間において、啄木は国民の間で最も知られた歌人であり、その作品は最も人口に膾炙しています。この国民歌人啄木をより深く知り、学ぶことは短歌愛好者にとって避けることの出来ない課題と考え、啄木の現代的意義を中心に考えてきました。今日は、その一端を報告させていただきます。

(啄木は国民歌人)

1.教科書に採用された短歌では、戦前戦後を通じ第一位
○ 戦前旧制中学校国語教科書に採用された短歌の数
① 石川啄木(295回)②若山牧水(204回)③斎藤茂吉(176回)④島木赤彦(143回)⑤佐佐木信綱(141回)⑥正岡子規(140回)⑦北原白秋(133回)⑧長塚節(114回)
そのうち啄木の掲載歌では、一番多いのが、
・ふるさとの訛りなつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく二番目に多いのが、
・たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/三歩歩まず
○現代の国語教科書における啄木短歌の採用
① 石川啄木 ②斎藤茂吉 ③与謝野晶子 ④北原白秋 ⑤若山牧水
そのうち、啄木短歌の掲載順位は、
① 不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸われし/十五の心
② 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ
以上のような事実は、約100年の間、啄木の短歌がもっとも国民の間で愛誦されてきたことを示しています。
2.今年は、啄木生誕一三〇年にあたる。啄木が今どのように論じられつつあるのか、考えてみたいと思います。
『現代短歌』三月号が「よみがえる啄木 石川啄木生誕一三〇年」を特集している(以下「特集」)。多くの歌人が啄木に親近感を抱いています。「わかりやすいが技術的にヘタ」「弱さがある」など、専門歌人が啄木をあまり評価しなかったこれまでの論調がほとんど見られなくなっています。
「特集」で松村正直は「その歌は今も多くの人に読み継がれている。一般の人に親しまれ、人口に膾炙しているという点において、啄木の歌は群を抜いている」と述べています。
多くの歌人が啄木についてのべています。
そのひとりである小池光は「特集」のインタビューで「啄木の歌を読むと違和感ないんだよね。現代に直結するのは驚きですよね」と述べ、あるときタクシーに乗って「短歌の集まりに行く」と言うと運転手が「短歌ってのはじっと手を見るやつですか」と言ったのに感激したことを語っています。

(啄木は現代短歌を切り開いた)

また小池光は述べる。「短歌とは何か、と問うたときに『じっと手を見ることだ』と言うのはけだし名言です。そういう時に出てくるフレーズは、斎藤茂吉でも若山牧水でもなくて、石川啄木なんだよね。それだけのポピュラリティーというか、愛唱性。いったん聞いたら、心に刻まれて離れない言葉の力。そういう歌の原型、近代短歌の原型をつくってみせたのは啄木じゃないかと思う」(傍点筆者)
「特集」で吉村睦人は「アララギの歌会に出るようになって、何度か、『啄木から入った者は歌が伸びるよ』と土屋文明が言うのを聞き、嬉しかった」と述べている。 戦後、文明は「短歌の現在および将来に就いて」で「生活即文学である」「短歌といふものは同じ立場に立ち、同じ生活の基盤に立つ勤労者同士の叫びの交換である」と語ったが、啄木が『弓町より─食ふべき詩』において「『食ふべき詩』とは、謂う心は、両足を地面にくっ付けていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。我々に『必要』な詩ということである」という詩論につながることを考えさせる。
川野里子は『歌壇』誌三月号「短歌時評」で「焦燥、怒り、虚無感、自己憐憫、自虐、見えないものとのシャドーボクシング、などなど。啄木には、彼以前にはなく、彼なしには切り開けなかった抒情がある。総じてネガティブな悲哀の表情は多様で機微に富んでいてしばしば驚くほど現代的だ。そして啄木の切り開いた水脈はそのまま今日へ引き継がれたのかと思えるほど、昨今の作品にその影響が感じられるのだ。若手歌人のアンソロジー『桜前線開架宣言』(左右社)を読みながらまずそのことを思った」と注目すべきことを述べている。

(現代短歌は啄木の継承─田中礼氏の論考から)

田中礼氏は、著書『啄木とその系譜』の中で、次のように論じています。
「残念ながら戦後56年を経て、啄木が提示した「時代閉塞の現状」は、形は違うものの、再び私たちの社会と意識の上に重くのしかかっている。閉塞のいらだちゆえに多くの人々が、突如として以前と同じ危険な方向に歩き出すおそれもないわけではない。凝視する啄木を語り合うことの必要がますます大きくなっているといえるだろう」と、指摘しつつ、現在の危険な情勢のもとにおける短歌の方向性について、次の提起が行われています。
「『一握の砂』からの継承は、(略)さまざまな系列に属する現代歌人が、啄木継承という一点で結びつくことを可能にするように思われるのである。」
戦後直ぐ、昭和22年に土屋文明が「短歌の現在および将来について」(『新短歌入門』)において、「(短歌は)同じ生活基盤に立つ勤労者の叫びを交わす声」と端的に述べていることは、まさに啄木短歌を継承するものといってもおかしくないのではと思います。そして今日においても、作者が意識するとしないとにかかわらず短歌の多くは、啄木や文明が言うところの短歌の基調に立っていると考えられます。
まさに啄木が『一握の砂』で前近代性と決別し、まったく新しく創始した短歌のあり方こそ現代短歌興隆の要因の一つであると考えれば『一握の砂』を著わした啄木は、現代短歌の礎を築いたといってもよいと思います。
そして現在、多くの著名な歌人たちが、戦争法に反対し、9条を守れという立場を公然と表明し、そうした歌が歌壇に多く歌われているという現状こそ、啄木短歌が継承されている証ではないかと考えます。

(文芸評論家、歌人たちは啄木をどう評価しているか)

啄木(短歌)については死後百年、文学作家の中でもっとも注目される一人であり、おのずから多くの議論がありますが、(研究書だけでも千冊を超える)啄木について、私たちはもっと知らなければと思います。啄木について、多くの歌人、文学者、文芸評論家などがさまざまに論じてきました。その一部を紹介します。

〇 加藤周一

当代随一と言われる文芸評論家の加藤周一は名著『日本文学史序説下』のなかで次のように述べています。
「日露戦争後10月革命前、1910年前後の時代の特徴を、鋭く体現していたのは、詩人ジャーナリスト、石川啄木(1885(ママ)~1912)である。」
「いわゆる『自然主義』の小説家たちは、彼らの時代の知識人を代表していたのではなく、その時代の知的活動からの脱落者であったにすぎない。しかるに啄木は、脱落者であるどころか、同時代の青年の2面─彼のいわゆる『内訌的』傾向と時代の状況に対する『宣戦』の態度─を、典型的に代表していたのである」。
「若くて死んだ啄木は、ハイネのように、一方では彼の『歌の本』を書いた。その青春の恋の歌は、今なお日本の少年少女に愛唱される。また他方では、ハイネが『ドイツ宗教哲学史考』において鋭く偶像破壊的であったように、『A LETTER FROM PRISON』において強大な権力の側にではなく、その権力に対する反逆者の側に立っていた。(略)啄木こそは、今世紀の初め、島国の中での青春のおかれた現実と彼らにとっての現実性とを、もっとも正確に証言していたのである」。
*啄木『時代閉塞の現状』より…すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実──「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

○ 山田あき(歌人、坪野哲久の妻)

山田あきは『明治短歌史 近代短歌史第1巻』「第五章 石川啄木の短歌革新の意義」の中で「啄木の一生は探求の連続であった」(傍点筆者)とし、
「1908年7月26日の日記(筆者注…啄木が北海道より4度目にして最後の東京へ行き、小説家をめざしたが、ことごとく失敗し、それまで約5年間の『天才主義』が挫折、崩壊を始めた時期にあたるでしょうか)を見ると、この日記の前にも、死にまつわる考えに悩まされています。(略)
窮乏の暗さ惨めさにやりきれなくなって、気分を日記に書き刻むことによってまぎらしていた傾きが多分にみられます。意識家啄木と刹那主義者啄木とが交互に出没しています。(略)感性と知性の両面において、たぐいまれなるするどさを持つ明治青年の典型がうかびあがってくるのを覚えます。『自己の価値、文学の価値、それらが総て疑問だ。深い深い疑問だ。人生は痛切な事実だ。予は生まれてから今が一番真面目な時だ。然し今でもまだ不真面目なところがある』と述べています。
小説を書いて、身を立てようとした啄木が、いまや自己をも文学をもまたこの人生をも暗い失望の中から凝視しようとする(略)これはまぎれもなく自然主義の視点に立っての思索過程であると思います。
啄木はこの痛烈な骨もかむような道程を通過しながら、もう一度高い、反自然主義の思索へとのぼりつめてゆきます。頭で考えるとともに、より多くの彼の実生活の体験からまなびとったと見られます。」「『一握の砂』から、浪漫主義や自然主義や社会主義を押し出して論をすすめるやりかたくらい、うとましいものはないでしょう。そのような既成観念を消し去ったところから、啄木のいきいきとした、まことの人間らしい顔が話しかけてくるのです。啄木を理解するのはそれからのことです。啄木の一生が探求の連続であったという意味では、彼はたしかに革命的な詩人でした。それを典型的な社会主義詩人であるかのように規定づけることは、大きな誤りだと考えます。」(『明治短歌史』236~237P)
そして次のようにも言っています。
啄木の短歌革新の意味を概括すると次のようになるかと思います。その内容において生活を重視する、現実感をもる(筆者注・リアリズム)、時代感覚を必然とする、この3点にしぼられると考えます。つらぬいているのは人間生命の愛惜であり、ざっくばらんなその告白です。近代人としての意識重視の問題がここにみられます。啄木は文学に批評を求め、意識化を求め、やがては社会主義へと移行するようになります。」(同241~242P)

○ 折口信夫=釈超空の啄木論

近現代における最高峰にある歌人の一人ともいわれる釈超空は「啄木からでて」(折口信夫全集代二五巻 中公文庫)において、啄木歌について、つぎのように語っています。
・盛岡の中学校のバルコンの手すりにも一度我を寄らしめ
『一握の砂』の序文を朝日新聞の社会部長であった藪野椋十(渋川玄耳氏)が書いているがその中に、啄木と私とは年が違うので彼の感じるところは私には訳らない。しかし、それにも拘らずこの歌を見ると、何か驚かされるものがある、と言ふようなことが書いてある。(略)今迄の文学は年寄りに訳るものは幼年者にはわからず、幼年者に訳るものは年長者に同調せられぬことが多かった。
・よごれたる足袋はくときの気味わるき想いに似たる思い出もあり
後になって想いだすと恥ずかしくて、再びしたくないと思ふ。自分で自分がしたことを恥じる。それは古い足袋を履くようになんとなく冷たい指にしみている、何かしらぞっとする様なのを歌に言っています。人間は反省がなければならぬ、子どもにも、大人にも、この歌のよんでいることがよく胸に応える。(略)これを読んで、文学的であるか否かについては、昔風の人なら、こんなのは歌ではないと考えます。ところが、今の歌では、さういう考え方はしません。昔の人は、文学は必ず美しくなければならないと思ってゐたのです。今迄反省したことのないやうなことを反省するのは、其れだけ人間を一段高いところに上げることになります。啄木は昔の人のいふ文学的要素には欠けていたが、もっと大事なものをもってゐてよく訳る歌をよんだ。(略)啄木は昔、新体詩を作ってゐまして、又それがうまかった。うまい筈で、先輩の作風を巧みに真似たものが多かった。(略)しかし、その後北海道まで転々と流浪の旅を続けて短時日に大変苦労をした。その為人間が早くできあがりました。又、彼はおもしろい俳諧歌などいふものをこしらえた。(略)啄木も、そう言ふ歌を作っている間に真面目な歌をつくる様になった。自分の経歴を笑ってゐるが、その中になんとも言えない厳粛感がでて来た。我々の人生には、笑ってすませることばかりあるのではありません。啄木は、皆に共通な感情を歌にしたのです。(略)人生を反省する力がある。思いがけない所から、われわれの生活の真の姿が示されて来る。それは文学の効能であるが、それがなければ、文学は遊戯であると思います。今迄の人の文学が遊戯的であったのは、この効果がなかった為なのです。
・ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな
この頃になると、啄木には嘘もかけねもなく如何にも、その心の底にある厳粛感がやさしさに充ちた調子で表現せられて来ました。この歌をよむと、岩手山の麓に暮らす者は、啄木ならずとも、この歌は皆の共通の感じを適切にうたっている。悲しいか嬉しいかは歌って居ないが、自然に襟を正す様な気持ちになる。これは啄木の歌の〈質〉がよいからであります。其れが文学の持つ〈正しさ〉です。啄木はだんだん、歌は短いものだが、他の大文学と違わない純な人の心を動かす様になりました。
・高き山の頂に登り何かなし帽子を振りて下りきしかな
私はこれを読んで、啄木ははじめて完成に達したと考えました。(略)昔はこの様な歌を作るものはなかったのです。私共の若い頃は、こんな歌は意味のないものとかんがえられました。この歌は単純であり、その良さを説明してくれと言はれるとちょっと困る。何か良いものがある。歌の内容は、日常の普通にあるものであるが、そう思ってゐるものが、人には重要なものであることが往々にしてあります。昔の文学はそういう平凡な事は、歌の題材に取らなかった。しかし啄木は平凡なものを題材に採って、其れをこなして、却って我々の気持ちに触れしめたのです。これより人々は激情的なことを作るより、世の中の平凡なことを歌ふ様になりました。啄木が亡くなった明治四五年前後から、歌は変化して来ました。これはある部分まで、彼啄木の力に由るものであります。苦しんでゐるうちに、知らず知らずのうちに達した啄木は、色々な歌を歌ってゐます。」
「啄木は、人間や今の世に関係のないものはつくらないことにしてゐたのです」
「如何にすれば我々のつかんだ事が、適切に表されるかと言う問題になる」
「幸いに諸君達は目前に、立派な先輩石川啄木を持ってゐます。その歌を見る事は、啄木を通じて諸君の生活を説明してもらふ事である」
超空の啄木についてのこの論考を呼んで、私は啄木が到達した短歌の本質を良くみており、それは昔の歌にはなかったこと、啄木の亡くなった頃から歌に変化がおこったことをも指摘しており、きわめて的確な啄木論と思いました。

○茂吉による啄木評の進化─久保田正文氏の調査から

茂吉は、1882年、啄木より4年早く生まれましたが、第一歌集『赤光』の発行は、啄木没後1年の1913年でした。久保田正文著『近代短歌の構造』における「茂吉の啄木理解に関する調査」よれば「茂吉の啄木評価は時とともに発展している」とし、「(茂吉は)〈啄木は全体として尊敬すべき歌人〉であることを実証的に明らかにした。」としています。久保田氏は茂吉が啄木について述べた18の文章を引用しています。
昭和10年、『明治大正和歌史』(『斎藤茂吉全集』第21巻)において、茂吉は述べています。
「・むやむやと口の中にてたうとげの事を呟く乞食もありき
・人がみな同じ方向に向いて行くそれを横より見ている心
・月に三十円もあれば田舎にては楽に暮らせるとひょっと思える
など5首を引き、「この明快な新しい感傷主義の歌は、いつも読者の絶ゆることのなく、時には選挙の演説資料ともなっている。これ啄木の歌の新鮮と大衆的のところがあるからである。」と述べています。
久保田正文氏は前記「茂吉の啄木理解に関する調査」の最後に、
「芥川龍之介が、茂吉に啄木の継承者・発展者としても可能性を見抜いたことは、反面の正しさを実証的に主張しうる。と同時に他の反面は、一人の茂吉の啄木研究と理解の成果のうえに、啄木よりすぐれてまったき止揚者・総合者の出現を、歴史的に求めいざなっている」とする指摘は、重要な問題提起ではないかと考えます。

○ 近藤芳美の啄木論について、

近藤芳美は『石川啄木における文学と生』(1964年垂水書房)を上梓、啄木について論評しています。面白いといえば変ですが、芳美の見解は先にみた順三の見方との共通性を感じます。
芳美いわく「短歌によってあとづけられていくはずの自己成長を心弱いときだけのつぶやきの記録としてしか残さなかった。彼には短歌に己の生き方を語らせる意志的なものがなかった。そのために彼の作品には根本的に、造型の力強さが足らなかった。作品として結晶の力が足らなかった。これだけのことを結論とする。だがそれにもかかわらず短歌史の上の啄木を高く評価する」(昭和25年5月「新日本文学」)
近藤芳美の啄木に対する積極的評価としては、「啄木は二つの仕事を私たちの短歌史の中に残した。短歌という古い詩形にまつわる、こびりついた古い詩学的粉飾をはぎとってくれたことだ。今一つは、人間の生き方と言うものを考え表現する方法として、この粉飾をとってしまったあとの伝統詩形が充分に使いものになる、ということを、啄木自身の仕事は不十分であったかしれないが、とにかく一つの発端として我々に残してくれたことだ」(昭和30年3月、「文芸」増刊「石川啄木読本」)
結局、順三も芳美も、啄木を短歌史上高く評価しつつ、短歌の内容については、順三は「愚痴」「追憶」「嘆息」であり、「短歌の限界がある」とし、芳美は「心弱いときの呟き」「己の生活を語らせる意志的なものがなかった」「根本的に造形の力が足らなかった」「作品として結晶の力が足らなかった」と論じています。つまり、短歌としてはいろいろ欠点が指摘されるとされています。思うに、芳美にも後述する順三と似た傾向の啄木の問題点の指摘、評価があり、このことが一般歌壇の啄木評価にも大きな影響を与えたと考えられます。ただし現在の歌人たちの啄木評価には目を瞠らせるものがあることは後述します。



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