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短歌、この一年の成果と課題( 19 年11月から 20 年10月)協会

私たちは、何を、いかに歌ったか

津田 道明

 はじめに

新日本歌人協会の一年間の創作活動をふり返ることが本稿の目的です。

ご承知の通り、新型コロナ感染症は現在、全国的にも地域的にも新たな拡大傾向を示していて、この稿をまとめている十一月初旬においてはとても収束の気配は見えていません。

しかし一方、今春期にいったん中断したものの、全国の支部歌会は、さまざまな対策を凝らしたうえで夏頃から活動を再開し、活動を進めています。本稿はこうした支部の活動を基礎とし、かつてない活動の困難に向き合いながら、民主主義短歌の創作・創造集団として私たちはいかに活動を進めてきたか、その成果と問題、課題を明らかにすることを意識してまとめたものです。

Ⅰ この一年の活動の起点

昨夏、全国総会と隔年で開催される「夏のセミナー」が小豆島で行われました。この全体像は「新日本歌人」十一月号に特集されています。夏のセミナーの参加者は五十七名でしたから、支部歌会などで話されているにしても、会員・読者が全体像を知ることができたのは、本誌十一月であったわけです。本稿をまとめるために再読しましたが、このセミナー特集は、現在全国的な会議開催の見通しが立っていない中、年間活動のふり返りの起点としての意味にとどまらず、今後の活動の指針として大きな意味を持つものでした。

 夏のセミナーの中心テーマ

まず、「セミナーの基調提言(小石雅夫)」のなかで注目しておきたいのは、さまざまな社会の危機の問題について歌壇の内部からは「平穏に何も起こらないが如くで」あり、例えば「あいちトリエンナーレ」など表現の自由に関してすら、短歌団体のどこからも「日本ペンクラブ」のような抗議の意思表明がなかったことをあげ、全体として「歌壇の保守化傾向」について指摘されている点です。

また基調提言は、こうした現在の歌壇の状況に対し、私たち協会の側はどうか、と問い、「かつて『人民短歌』誌上でいろんな人や論・作が話題をひろげたのに、いまや協会誌(「新日本歌人」─引用者)はそうではなくなっているということには考えてみる点もおおいにある」としています。

この基調提言に続いて行なわれた「テーマ報告」は、

・日常の暮らしの中で詠う短歌 竹中トキ子
・高齢化社会の中で詠う短歌 土谷ひろ子
・憲法と民主主義の危機を詠う短歌 清水勝典

 の3報告でした。これらはぜひ読み直してほしいのですが、要約して括れば、暮らしの歌、老の歌、社会の歌と言える報告は、実際の地域的全国的な活動に根ざした個性的なもので、例えば老いの歌を取り上げても、そこには日々の暮らしの諸相が歌われ、哀歓がこもり、老の矜持が歌われ、現実政治への批判が歌いこまれ、次世代へのエールが強調されています。

つまり分野として独自の主題を持ち、作品世界─作者一人ひとりの生活の中から生まれた声─を展開しながら、他の大きなテーマと、相互にふかく関連し合う複合的なものとして存在しているということでした。

そのことが明瞭に感じとることができるのは、このテーマ報告に対応し、続いて、前年に刊行された協会合同歌集から三〇首をテーマ別に抄出して行われた三氏による報告でした。

テーマと報告者は次の通りです。

・日常の暮らしの中の短歌 松浦直巳・選
・高齢化社会の中の短歌 芦田幸恵・選
・憲法と民主主義の危機を詠う短歌─広く「社会詠」からも 髙島嘉巳・選

 これらから試みに各三首を引きます。

*暮らしの歌

 

土日も返上深夜帰宅の今だけは代わりに洗う息子のワイシャツ

加藤和子

人が減り賑わいなくなる山の里荒畑耕しそばの種蒔く

鈴木克己

職員の名簿に吾の名はあらず用務〈派遣〉と隅に記され

吉田万里子

 

*高齢者の歌

 

楽しげに体を拭けと指図する骨格標本の如く痩せし妻

武田俊郎

両手引き妻をトイレに連れて行く深夜にダンスをするかのように

渡辺幹生

妻逝きて誰とも話すこともなく冷えこむ朝にみそしるすする

松村誠一

*社会の歌

 

美ら海のじゅごんも珊瑚もともに哭け翁長死すとも基地は許さじ

入江春行

ラバウルの野戦病舎の跡の土手に父呼べば風立ち騒ぐ

佐野映子

ウツにしたパワハラ追及できぬまま治すが先と説くも切なく

清野真人

テーマを方法論的に見直す

最初の「暮らしの歌」三首からでも、家事を歌い、農を歌い、仕事を歌って、そこに現代社会の影が濃いことは容易に見て取れます。

高齢者の歌には、老の暮らしの哀歓─人間に対する深い愛というものが歌われていることを私たちは感じることができるし、次の社会の歌についても、その中に、紛れもなく人間の存在を感じ取ることができます。

〈社会の歌〉の作品をについて検討してみます。

病と闘いぬいた翁長知事を悼む入江の歌の背後には沖縄にゆたかな自然を守るというテーマが息づいていますし、佐野のラバウルの歌は、戦病死した父の追憶の背後に、日本軍兵士の半数以上が、「戦死」ではなく、餓死者であり、病死者であったという、無謀極まりない悲惨なアジア・太平戦争史が横たわっています。

うつ病とパワハラの歌は、告発し、問題解決をすすめる迫るうえで、なお当事者の苦しさを分かち合いながらすすむことの困難さ、苦しさを歌っています。

つまりこれらの歌は、今日私たちが何を歌っていくか、というテーマの問題とともに、その方法について示唆を与えるものになっていると私は受け取りました。

それは、作者が関心を持った、日日の暮らしの中での問題の根本にあり、背景となっている現実社会への深く広い問題意識を保ちながら、そこに歴史的な背景や作者自身の内側の心の起伏、葛藤を撚り合わせていることです。

入江の歌は名前を出していませんが、珊瑚とジュゴンの海は明らかに辺野古の海です。哭いているのは沖縄の自然であり自分です。また一首は翁長知事の死への慟哭であるとともに、そこからの回生─立ち直りという提示でもあります。

私はいま手元のセミナー資料を見ながらこの稿を起こしているのですが、こうした方法論的な検討という点からみると、抄出された三〇首もさることながら、松浦、芦田、髙島三氏が、どのような基準で作品を評価し、選んだか、言い換えると三氏は、抄出作品をどのように読んだか、という、作品論に関するセミナーでの報告が、誌上に取り上げられなかったことはまことに残念なことでした。

このような方法論の吟味の大切さを、さらに印象付けたのは、これらの基調的報告・作品提示のあとに行われた「えひめ新歌人とともに」(大川史香)と「私の短歌のつくり方」(長勝昭)の報告でした。

この二報告は、技術論的な要素もありますが、それ以上に、体験にもとづく個性的な〝作歌工房〟紹介として私たちが作品創造にいかに向き合うか、という基本を示しています。この報告に参加者がいかに共感し、学んだかは、十一月号のセミナー特集の最後の参加者からの声に示されています。

この、十一氏によるレポートは短い文章ですが、何が論じられ、自分は何に心を動かされたかが丁寧に書かれていて、この「感想」からも多く学ぶことができるものです。

以上を起点としながら、この一年の私たちの活動を振り返ってみます。

Ⅱ 「新日本歌人」にみる成果と課題

「特集」を考える

年が明けて間もなく、新型コロナ感染症患者の発生に始まり、クルーズ船の問題など感染者の急増によって、私たちの活動はさまざまな制約を受けることになりました。

雑誌「短歌研究」は六月号において「短歌、緊急事態宣言」という特集を組みましたが、そこに集約されている対応策は、本誌の巻末に書かれている「事務局通信」の活動と同様で、「三密」を避けるために、雑誌編集などの対面的な共同作業であった専門部活動を縮小したり、全国大会も支部歌会や研究会などもあいついで中止を余儀なくされ、こうしたなかで、一部の結社では雑誌の定期発行が危ぶまれるなどの深刻な影響さえ生まれていました。

協会もこうした事例と同様にさまざまな対応を強いられてきたわけですが、組織的対応の困難さを乗り越える上で、夏のセミナーでの「テーマ報告」で見てきたように、現代という時代と社会の中で、暮らしに根ざした短歌創造を目指すという民主主義短歌の創造という骨格を大事にしてきた本協会の歴史、蓄積の大切さを痛感します。

この目的意識的な創造活動が、端的に表れるのが雑誌の「特集」です。これは一般の短歌雑誌にもある程度重なることですが、短歌結社、団体の場合は特にその問題意識が鮮明に表れます。では私たちはいかなる特集を組んだか。

この一年(2019.11~2020.10)の特集は、先に触れたセミナー報告(十一月号)や新春詠(一月号)、順三特集(二月号)、啄木特集(四月号)を除くと、次の通りでした。

一月号 作品特集「いま高齢を生きる」
二月号 作品特集「いま高齢を生きる」・続
三月号 「女性の歌・競詠」「〈災害列島〉その時・その後」
五月号 「〈憲法〉詩歌句特集」、「日本国憲法を読む」
六月号 沖縄特集・作品とエッセー
八月号 八月特集〈「八月を詠う〉、〈ミニエッセー〉
九月号 緊急特集「いま、この危機を詠む」①
十月号 緊急特集「いま、この危機を詠む」②

これらのタイトルを見ると、特集は、夏のセミナーで語られた、いま私たちは何を歌うか、というテーマの展開と太く連なっていることがわかります。そして六月、新型コロナ感染症の広がりという事態を、いま、私たちはいかにとらえるべきかを緊急に提起したことも大いに意味のあることでした。九・十月号、2回の連載分だけで八十五氏の作品が掲載され、この企画は当初3か月の予定を急遽延長されましたが、これはまさに時宜にかなった対応でした。

ただ、前述した、セミナー報告の「三〇首選」の報告部分の掲載問題にも重なりますが、これら特集は、組まれること自体にも、もちろん意義はありますが、これらの作品を私たちはいかに読んだか、という吟味も同じように重視されなければならないのではないでしょうか。

高齢者短歌にしても、憲法問題にしても、「新日本歌人」はいかに詠ったかを掲載作品に即して書くことができるし、書かれなければいけなかったのではないでしょうか。

投稿欄についての作品評はきちんと書かれているのに、特集の作品評がないのは、極端にいえば、大いなる収穫物を活かしきっていないということではないでしょうか。

時評を考える

「特集」が、新日本歌人協会の創作上の主題認識に関わるとすれば、歌壇の現状について、継続的に検討し、課題を明らかにする点では「時評」の果たす役割はとても大きく、重い。この一年の時評のタイトル・月・執筆者を順に挙げます。

言論抑圧・表現の自由について(11. 赤塚堯)/「短歌研究」一月特集「天皇制と短歌」を考える(12. 赤塚)/憲法九条を守るたたかいと短歌の力(1. 中山洋子)/短歌年鑑「国語教育と短歌 なぜ文学か」を読んで(2. 中山)/新しい年を迎えて 何をどう詠うか(3. 中山)/「いま『日本』を歌う」─「短歌研究」の特集について(4. 長勝昭)/「歌合」というゲーム 遊びから文芸の高みへ(5. 長)/短歌と差別表現─表現の自由はたたかってこそー(6. 長)/『非国民』」と称された人々の文学、短歌(7. 赤塚)/百年に一度のコロナ禍を、どう詠っているか(8. 赤塚)/今、なぜ「韓国と短歌」「天皇と短歌」なのか(9. 赤塚)/コロナ禍と戦後七十五年(10. 城間百合子)

歌壇時評は、夏のセミナーにおける「基調提言」の歌壇の現状認識と深く関わっていて、個人によって書かれているとはいえ、書く側も読者の側も、これを単なる個人論文とは受け止めていません。「新日本歌人」は、他の結社や短歌関係者に一定数が届けられていますから、こうした人達からすると、「特集」とともに、「新日本歌人」は、歌壇や現代短歌をどのようにみているかを考える有力な素材となります。

その点からも時評の書き手をいかに育てるか、はとても重要な課題です。この一年の執筆者では赤塚副代表の奮闘が目を引きますが、その中でも、赤塚の12月時評、中山の3月時評、長の4月号時評、赤塚9月号時評をはじめ、歌人と天皇家のかかわりに及んだ指摘に注目しました。

この問題では、「歌会始め」や今回の大嘗祭関連の篠弘、永田和宏の作品など節目の天皇家行事と歌壇、歌人との関係に注目が集まりますが、あらためてこの問題を、広く考えていく必要があります。

というのも、例えば5月号の時評において、長勝昭は「現代短歌」3月号の「短歌にとって悪とは何か」という特集についてふれているのですが、同号には「短歌21世紀」の大河原惇行が巻頭130首を発表していて、そのなかに「天皇即位の礼」に関わる作品も含まれています。含まれてはいるけれど、それは中山洋子も3月号の時評で触れている永田の大嘗祭の作品とは、私は同列には論じられないものがあると考えます。大河原の一首を引きます。

今日は天皇即位の礼に向ふ心を留む我にありては

永田の大嘗祭歌の、天皇制の内側にあっての親和性は、例えば岡井隆のそれとも通底する印象を私は持ちますが、大河原の作品は必ずしもそうではないように思います。

先に、この「天皇制と短歌」の問題を「広く考えていく」としたのはそういう意味です

関連して内容的に考えると、時評において、歌集評や話題作についての論及が見られないことも課題の一つです。月刊誌の限られたスペースですから、勢い、短歌雑誌を取り上げる際には「特集」を対象としがちなのですが、先の「特集」に関わる作品論の未着手の問題と併せて、検討すべき課題の一つです。この点は、本誌の歌集評の対象が会員の歌集になっていることと併せて考えるべきかもしれません。

先に挙げた大河原の130首は、埼玉にあって体験した昨秋の台風被災を中心にした、九月十月の、日付けのある13日間、各10首の作品群ですが、即位礼以外の歌を見ると、

川のほとりに住みてわが抱く不安何か水害のこと温暖化など
この命己守れの言葉ありて心を繋ぐ思ひのあらず

など、作品は私的な災害体験歌の範囲にとどまっていません。二首目の歌は、災害関連のニュース番組などでの、アナウンサー語り掛ける行為を詠っていると思いますが、その声について、少なくとも、「短歌21世紀」代表の大河原は、その言葉は自分に届いていないと詠っています。

やや牽強付会という思いもしますが、私には近時しきりに唱えられている「自助」の強調と重なって聞こえています。

今年の特集、時評に取り上げられていなかったけれど、災害と人間の連帯の歌も取り組むべきテーマの一つです。

本紙時評の対象となっているのは、短歌雑誌が中心で、結社誌については一部の時評をのぞき、ほとんど触れられていません。この点は新日本歌人協会の立ち位置から考えると、時評の課題とするかどうかもふくめ、短歌団体、結社との共同の在り方、関わり方の問題として検討課題の一つでしょう。

創作活動上の問題

特集、時評などが、「新日本歌人」の課題意識を端的に映し出す企画であるとすれは、投稿作品と「月評」および「選のあとに」は、協会内部の基礎的な作歌力を示すものです。

毎号の目次の作品欄には、その月の投稿者数が示されています。月ごとの大きな変動はないものの投稿者数は268~286名となっていて投稿率は60%弱です。年間の投稿歌数は2万数千首になりますが、昨年の年間評でも触れられているように、やはりこの投稿率には課題があります。

詳細に分析したわけではないのですが、試みに一月号と二月号のア行カ行の会員の投稿者を比較してみましたが、大きな問題は欠詠です。

しかし各地の支部ニュースを見ていると、毎月の支部歌会には、ほとんど欠詠はないようです。ですから、必ずしも八首揃わなくても良いので、とにかく欠詠をしないことをまずは目指しましょう。支部歌会での批評や鑑賞を受けて、作品を見直し推敲した作品やそこから生まれた新しい歌などをため込まないで、作品を、歌人誌を通じて全国の仲間にみてもらうように投稿する。ここが大事です。多くの会員が社会的な関心を持ち、さまざまな地域での活動に参加しその関心の高さ、深さは明らかですから、次には人間の問題、心の問題に関わる歌を見ていきたいと思います。人間の内面の問題では万葉集以来、相聞と挽歌として部立てがおこなわれてきましたが、高齢社会の現実は、死と生の境界の日常の出現という問題を私たちに投げかけています。また現代社会の仕事の現場の厳しさは、政府が〝働き方改革〟を政策化せざるを得ないほど、深刻であり、働く人を追い詰めています。

雨傘の範囲の中の孤独もち溢れる涙を誰ものぞくな (高木広明・千葉)
話すこと笑うことなき独り居は窓をひらきてたそがれを吸う (早川典宏・北海道)
祝わるることも知らずに特養のベッドに眠る夫やがて百歳 (炭谷素子・埼玉)
ふくらはぎ激しく攣りて声上ぐる明け方のベッドに一人苦しむ (國宗 黎・熊本)
四時すぎて夜と朝とが交錯す仕事終えし人仕事に行く人 (小山尚治・埼玉)
誇り持ち昼夜励みし職なれど吾子の淋しさ置き去りにして (工藤葉子・千葉)
呉港に張られしポスター「日本のアメリカで働いてみませんか」 (福原すえ・山口)
生きるとは何かと思う認知症・ALSの妻の脚撫ず (武田俊郎・大阪)
二十日経て発見されし孤立死の土間に転がる三個の子芋 (奥田文夫・大阪)
遠き日に唇合わせたあの浜に遺灰を撒いてと酔う夫が言う (山下直子 兵庫)
また、「三十首抄」に引いた野戦病舎の歌に重なりますが、
家焼かれ疎開児われに筆硯整えくれし習字の時間 (野村丞子・高知)
山裾の夕暮長き無人駅に一人で待ちぬ還らぬ父を (武内佳子 神奈川)

など、短歌による「語り部」として、戦争の記憶に関わる歌を私たちは次の世代にひき継いでゆかねばなりません。

また小山作品に歌われている仕事の歌が極めて減少していますが、「抄出歌」の派遣の歌のように、今日の労働現場における非正規労働の問題も取り上げていくべきテーマです。

また、「心」の問題でいえば、

少年の心の闇の石つぶていくども襲う老人に向きて (今岡紀子・岐阜)

として歌われた子どもたちの今を歌った作品も生まれています。社会の現実を詠った私たちの財産といえます。

以上、創作活動の成果を見てきましたが、これをさらに高め、推敲の力を高めていくうえで、「選のあとに」の活用を強調したいと思います。とくに、十一月号(清水)、三月号(松野)の「選のあとに」は選歌の方法にもかかわって問題意識が書かれていて、大いに参考になります。

支部の活動の高まり

このような多彩な作品世界を見てゆくと、あらためて全国の支部の活動に注目しなければなりません。これについては「新日本歌人」に毎号組織部が各支部ニュースなどをもとに、時には取材しながら紹介しています。

本稿をまとめるため、支部にお願いして現物のニュースを送っていただきましたが、コロナ禍の多忙な中、支部の皆さんが献身的に活動されていることが伝わってきます。

全支部を紹介できず、申し訳ないのですが、紹介します。

今期の支部活動では、なんといっても大阪府連が、これまで意識的に追求してきた地域に支部を作り、育てるという活動を基礎にして、府全体で会員・読者の拡大を進めてきたことが挙げられます。これは本誌に中山レポートとしてまとめられていますが、特に注目されるのが組織拡大とともに、独自に合同歌集の刊行にも取り組み、〝創造と普及〟という両輪の活動を進めた点です。このことは、昨年末に刊行された神奈川の「うしお」支部の『五〇周年記念合同歌集』や創立38年となった愛媛支部の『合同歌集九 いしづち』など、活発な支部歌集刊行の取り組みも量的拡充の土台ともなりますから、期待したいと思います。

また今期の支部活動の蓄積を強く印象付けたのは、山口支部、「あらくさ短歌会」の森田アヤ子の第7回現代短歌賞の受賞でした。「現代短歌」一月号の選考経過を読むと、候補作品のうち、最も高い評価を得ています。これについては本誌でも紹介されているので、ここでは触れませんが、強調したい点は、山口支部の機関誌「あらくさ」です。季刊の6月号では、全66頁中、松野さと江が作品評を15頁にわたって書いていますが、支部誌の評として、たぶんに共感的に書いていることが大きな特徴です。協会誌の作品評とは異なる、率直であると同時に仲間の温かさを感じるトーンで、私自身も作品の〝読み〟の問題、推敲と添削の実際を考えるうえで、同号は大いに参考になったことを記しておきたい。

このほか宮崎支部の歌会レジュメを拝見したのですが、それによると、歌会の8首の中には、一首以上の「題詠」を提出することにしています。ユニークな企画です。これは支部の作歌力を高める工夫の一つでしょう。さらに同支部は、近現代短歌の「穴あきクイズ」も継続されています。例歌の範囲が極めて広く、これは形を変えた近現代短歌学習の一つとなるものです。

こうした工夫を交流し、学びあい、この困難な時代を切り拓くために、さらに力を合わせていきましょう。



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