■「九条」俳句不掲載問題から考える ─表現の自由、人権─
新俳句人連盟 畠中 耕
梅雨空に「九条守れ」の女性デモの句が不掲載となった
「自由にものが言える。自由に表現ができる。当たり前のことがあたりまえに守られるよう、判決をよろしくお願いします。」と、東京高等裁判所の法廷で原告の女性は述べた。
右の句は、三橋公民館職員によって「公民館だより」から掲載を拒否された。掲載を求め、さいたま市と粘り強く交渉してきたが、掲載に応じない市当局に交渉の限界を感じ、裁判に訴え、すでに四年である。
裁判はさいたま市側の控訴で、控訴審判決まで進み、「表現の自由」を巡る、大きな裁判闘争に発展し、上告審を待つ状態となっている。
ここで、訴訟に至るまでの経過を辿ってみよう。
この句は、かたばみ三橋俳句会の六月の秀句として選ばれ、三橋公民館に提出されたものである。三橋公民館は、俳句の掲載を依頼してから三年八カ月の間提出された俳句をそのまま掲載することが慣行となっていた。原作者も掲載されるものだと思っていた。ところが三橋俳句会の代表代行を通して、この句は載せられないと言ってきた。さらに、三橋公民館長から本人に「世論が二分するようなテーマの俳句は『公民館だより』には載せられない。」、公民館の考えであると思われるのでだめです。」と書面で連絡してきた。
「なぜ私の句だけダメなのか。」という素朴な疑問から、原作者は、家族に相談し、東京新聞にも訴えた。二〇一四年七月二日の紙面に載った。この記事の「不掲載」ということに疑問を持ったマスコミは、一斉に注目して、報道した。
この記事を見た俳句会の仲間、疑問を持つ地域の仲間たちは、市当局に掲載の交渉を始めたが、市当局は、頑として不掲載の態度を崩さなかった。
その中で、「表現の自由」に危機感を持った共産党はじめ多くの民主団体の抗議や請願がなされた。一〇〇件を超える抗議が市当局にあったといわれる。それでも市当局は「不掲載」の姿勢を崩さなかった。
原作者に支援する人たちも次第に増えて、「『九条俳句』市民応援団」が結成され、社会教育学者や故金子兜太、山崎十生氏らの文化人、全国の支援する人々と輪が広がっていった。
しかし、市当局との話し合いは進まず、行き詰まりを見せる中で裁判所に訴えることを原告は決断した。
これが大まかな経緯である。
九条俳句不掲載訴訟事件は、現行の憲法秩序を歪め、変質させてゆく大きな問題点を我々市民に投げかけている。原告の素朴な疑問は、現行憲法の中で自然に身に付けてきた当たり前の人権感覚であり、その当たり前の人権感覚が、実は守られていなかった。「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の俳句の表現が、政治的な表現であると曲解されて、阻止され、歪められて把握された。公民館という公権力によって「不掲載」という個人の尊厳を侵害する人権侵害事件になったと言ってよい。
第一審の判決
原作者(原告)がさいたま市に求めたことは
①掲載請求─「三橋公民館だより」に九条俳句を掲載すること。
②国家賠償請求─九条俳句を不掲載とされたことに対する損害の賠償である。弁護団は国家賠償責任を認めさせる理由として、五つの権利侵害を主張した。
㋐表現の自由 ㋑学習権 ㋒人格権 ㋓公の施設利用権 ㋔掲載請求権の侵害である。
裁判は、主に八つの論点で争われた。
①公民館だよりの性質
②公民館だよりが表現の場となっていたのか。
③表現の自由
④社会教育法違反
⑤学習権
⑥人格権(人格的利益)
⑦行政の中立化が正当根拠となるか。
⑧編集権の所在である。
「社会教育とは、自立した個人である住民同士による自己教育自己学習が基本となる。公民館は、このような住民の社会教育のための場として設けられた施設教育機関である。」この点は、原告とさいたま市との意見の対立はなかった。
しかし、次の五点においては、意見が異なり裁判で争った。
①公民館だよりの性質、特に編集権の所在である。
原告弁護団は三年八カ月も三橋公民館が承認してきた既成事実がある。、専決処分の権限は実質上は三橋公民館にあると主張した。
さいたま市の公民館は三市(浦和、大宮、与野)の合併により、拠点公民館と地区公民館に分かれ、三橋公民館の拠点公民館は桜木公民館となった。教育長に公民館の事業を行う権限が委任され、「事務」の専決処分の権限を拠点公民館が持つという。社会教育法が制定された当時の住民の学び場、相互学習の場の拠点であった公民館の権限が狭められて行った。「さいたま市側は、公民館だよりの発行権限も編集権も拠点公民館長にある」と言う。
②自立した個人の学習権の問題
学習権とは、「国民各自が、一個の人間として、また、一市民として成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利」憲法二六条(教育を受ける権利)の背後にある憲法上の人権であり、この学習権の延長上に発表行為も含まれると主張した。しかし、さいたま市側は俳句の創作、発表活動に干渉していないから、学習権の侵害でないと言っている。
③表現の自由の問題
公民館が三年八カ月の期間、秀句を掲載してきたが、俳句の内容に着目して、差別的取扱いをし、不掲載にした。表現の自由を侵したことになる。と原告弁護団は主張した。
さいたま市側は、そもそも、原告側には俳句を掲載する権限がないから「表現の自由」の侵害は存在しないという。
④社会教育法の問題
㋐社会教育法一二条の違反「国及び地方教育団体は、社会教育団体に対し、いかなる方法によっても、不当に統制的支配をおよぼし、又はその事業に干渉を加えてはならない」
㋑社会教育法九条の3違反「社会教育主事は、社会教育を行うものに専門的技術的な助言と指導を与える。ただし、命令及び監督をしてはならない。」にさいたま市側は違反しているということである。不当な干渉、命令、監督にあたると原告は主張した。
⑤「中立、公正、公平」が不掲載を正当化するか。
さいたま市側は社会教育法二三条1項2号、さいたま市広告掲載基準を参考に、行政の「中立、公正、公平」を主張してきたが、この条文によりこの立論は、そもそも成り立たない議論と、原告弁護団は主張した。
これらに対して、裁判所の判断は、結論的には、原告が主張した五つ(①表現の自由 ②学習権 ③人格権 ④公の施設利用権 ⑤掲載請求権の侵害)の権利侵害はなかったが、職員の杜撰的な検討で、他の秀句とは異なる不平等な取扱いをしたので、原告の権利を侵害した。被告は原告に損害賠償を払うべきと判断した。
判決の主文は、「被告は、原告に対し、五万円及びこれに対する平成二六年七月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。」というものだった。
第二審の判決
判決の主文は、第一審被告の控訴に基づき、原判決を次の通り変更する。(1)第一審被告は、原告に対し、五〇〇〇円及びこれに対する平成二六年七月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え
この裁判長のことばに傍聴している支援者側から「裁判長!」「不当判決だ!」の声も発せられた。
しかし、その後の報告集会で、弁護団の説明によると今回の判決は、「基本的人権の侵害まで、裁判所が踏み込んだ判決で、勝訴である。」と、説明された。
勝訴の内容を判決文から見る。
平成一七年最高裁判例を参考に、本件事例は「第一審原告の公民館の利用を通じた社会教育活動の一環としてなされた学習成果の発表行為につき、第一審原告の思想、信条を理由に、これまでの他の住民が著作した秀句の取扱いと異なる不公正な取扱いをしたものであり、これによって、第一審原告の上記人格的利益を違法に侵害したものというべきである。」
「したがって、三橋公民館及び桜木公民館の職員らが、第一審原告の思想や信条を理由として、本件俳句を本件たよりに掲載しないという不公正な取扱いをしたことにより、第一審原告は、人格的利益を違法に侵害されたということができるから、三橋公民館が本件俳句を本件たよりに掲載しなかったことは、国家賠償法上、違法というべきである。」
人格的利益とは、憲法一三条に基づく基本的人権の一つである。憲法が裁判所の判決に書き加えられ、第一審判決より一歩前進した内容だ。
しかしその賠償額が五〇〇〇円というのはどういう判断なのだろうか。上告審の判断が待たれる。
「九条俳句不掲載事件」は、文化人にとって看過できない事件
自民党市議が、この俳句に「今回の俳句は、文芸を利用した一種のプロパガンダになった可能性がある。」「文芸に値しない作品と感じている」と議会の委員会で発言していた。(朝日・二六・一〇、九)
現憲法に基づく発言ではなく、憲法擁護義務も議員として果たしていない発言で、こういう発言は、地方議会に多くなってきている。
昭和一五年(一九四〇年)は、戦前の日本にとっては特別な年である。紀元二六〇〇年記念行事が組まれ、軍国日本の完成期であった。この年、俳句界には大弾圧の嵐がふいていた。
新興俳句弾圧事件、「京大俳句」から始まり、昭和一八年まで多くの俳人たちが検挙され、投獄された。
戦前の俳句弾圧事件を忘れまいと、故金子兜太氏や無言館館長窪島誠一郎氏、俳人・比較文学者マブソン青眼氏等が呼びかけ人になって「俳句弾圧不忘の碑」がこのほど完成した。
出獄後の戦後、新俳句人連盟結成を牽引してきた幹部もその碑に刻まれている。
墓標立ち戦場つかの間にうつる 石橋辰之助
戦争止めろと叫べない叫びをあげている劇場だ 栗林一石路
大戦起こるこの日のために獄をたまわる 橋本夢道
戦前の言論・表現の自由に対する弾圧から、猛反省をして日本国憲法は誕生した。
日本国憲法の下で教育基本法ができ、社会教育法も作られた。この九条俳句不掲載事件の裁判で明らかになったことは、戦後社会教育の歩みを再確認することである。社会教育は、大人の学びの場であり、「自立した個人である住民同士による自己教育自己学習が基本となる。」その学びの場を提供する場が「公民館」である。大人の学びにも学習権があり、学習発表の自由が認められる。
今回の裁判は、社会教育の根幹にかかわる「大人の学び」を行政の力で押さえ込もうとする事件である。
言論、表現の自由、学問の自由、教育の自由は民主主義の根幹である。「九条俳句」の掲載を上告審で勝ち取るためにも連帯して「市民応援団」を支援したい。